■「三大水城」のひとつ・高松城

現在の香川県高松市にある高松城は瀬戸内海に面しており、海に浮かんでいるように見えるのが特徴的な城でした。現在は天守や御門などは失われていますが、今も名城として多くの人に親しまれています。


この城を建てたのは生駒親正(いこま・ちかまさ)という武将(大名)です。天正15(1587)年に豊臣秀吉が四国を平定すると、親正には讃岐国が与えられました。そして翌年から、もともと港町だった高松の地で築城を始めます。

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生駒親正(Wikipediaより)

高松城は、本丸の周りに二の丸・三の丸・桜の馬場・西の丸が時計回りに配置された「輪郭式」の平城です。本丸を中心に、全方位に放射状に郭が広がって行く形態なのです。

そしてこの城の最大の特徴は、北側に広がる瀬戸内海を利用した「水城」であることでした。城の周囲には、瀬戸内海の海水を取り込んだ堀が三重に巡らされていたのです。

また、築城当時は外郭が海に面していたことから、水城特有の水手御門や防波堤、船溜りも設けられていました。

瀬戸内海の島の上に建てられたことから、「讃州讃岐の高松様の城が見えます波の上」と明治期の民謡でも謡われており、今治城・中津城と並ぶ三大水城として知られることとなります。

ただ不思議なことに誰が城の設計をしたのかは現在でも謎で、藤堂高虎とも細川忠興とも言われています。

また当時、高松城の周辺の海域は「玉藻の浦」と呼ばれていました。玉藻という言葉は、『万葉集』の中で柿本人麻呂が讃岐国の枕言葉として「玉藻よし」と詠んだことから使われています。
こうしたことから、高松城は別名「玉藻城」とも呼ばれていました。

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高松城跡を整備して作られた「玉藻公園」

■重要文化財としての高松城

さて、生駒氏は4代にわたり高松城を居城としますが、生駒高俊の代でお家騒動(生駒騒動)が起こり改易、転封となります。

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高松城

その後は、寛永19(1642)年に松平頼重が12万石で入封しました。松平頼重は、水戸徳川家初代藩主の徳川頼房の長男で、水戸黄門で有名な徳川光圀の兄にあたる人物です。

頼重が高松に入封したのは、西国諸藩の動きを監視するためだったとも言われています。

頼重は高松に入ると城内を改修し、寛文9(1669)年には3重4階+地下1階の壮大な天守が完成しました。この天守には約20の櫓が建ち並んでいたといいます。

その後、高松城は11代にわたって松平氏の居城となりますが、明治維新で旧幕府軍についたため朝敵となり、慶応4(1868)年、官軍に開城することになりました。

開城後は、外堀や城郭の北側が埋め立てられて海城の雰囲気が薄れます。中堀から内側は兵部省(のちの陸軍省)の管轄となり、城郭建物の多くは破却。明治17(1884)年には老朽化を理由に天守も解体されました。

その後、明治23(1890)年には再び松平家に払い下げとなり、昭和20(1945)年には戦災で桜御門が焼失。
しかし戦後は、北の丸にある月見櫓、水手御門、渡櫓、旧東の丸の艮櫓が国の重要文化財に指定されます。

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高松城月見櫓

さらに昭和29(1954)年には城跡が高松市の所有となり、昭和30(1955)年に国の史跡に指定。平成24(2012)年には披雲閣の3棟が国の重要文化財に、翌25(2013)年には披雲閣庭園が国の名勝に指定され、天守台の一般公開も始まりました。この天守台は、天守閣の復元を視野に入れて修復工事されたものでした。

今は遺跡として残る高松城ですが、「海に浮かぶ城」、ぜひ天守も含めて復元してほしいですね。

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