明日香村教育委員会の手で「牽牛子塚古墳等整備事業」として、牽牛子塚古墳とその一画にある越塚御門古墳の約5年にわたる復元作業が終了し、2022年3月6日から一般公開が始まりました。
終末期古墳、特に天皇の墳墓の真の姿が見られると、公開初日から多くの考古学ファン・歴史ファンが現地を訪れています。
今回は、そんな牽牛子塚古墳と越塚御門古墳について、2回にわたりご紹介します。【前編】では、牽牛子塚古墳に眠る斉明天皇と間人皇女。さらに越塚御門古墳に眠る大田皇女と、復元に至るまでの牽牛子塚・越塚御門の両古墳についてお話ししましょう。
■斉明天皇とはどのような帝か
乙巳の変、白村江の戦いという、古代史上最も激動の時代をリードした女帝・斉明天皇。(写真:Wikipedia)
斉明天皇は、飛鳥時代の女性天皇。第35代天皇として夫の舒明天皇(第34代)の跡を継ぎ、642年に第35代皇極天皇として即位しました。そして、第36代孝徳天皇の後に重祚して655年に再び皇位に就き、第37代斉明天皇となりました。
女帝は、敏達天皇(第30代)の孫・茅渟王(ちぬのみこ)を父として生まれ、舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)などの母としても知られます。
彼女の二度の治世は、日本が律令国家への道を歩む激動の時代にあたります。皇極時には、中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼした乙巳の変(大化の改新)が起き、斉明時には、百済を救援するために唐・新羅の連合軍と朝鮮半島で戦った白村江の戦いが起きました。
特に白村江の戦いの際には、老齢にも関わらず自ら大軍を率いて出征し、前線基地の筑紫朝倉宮で、その波乱に富んだ67年の生涯を閉じています。

645年に起きた乙巳の変で、暗殺される蘇我入鹿。左奥の女性が斉明(皇極)天皇。(写真:Wikipedia)
女帝はその治世で、大化の改新事業の実施、蝦夷征伐、飛鳥板葺宮など宮都の造営、飛鳥京における大規模な土木工事など、様々な事業を行いました。
飛鳥時代の人物というと、聖徳太子や中大兄皇子、中臣鎌足らに脚光が集まりますが、斉明女帝は彼らに引けを取らない、日本古代史上例を見ない卓越した手腕を振るった天皇であったのです。
また、石の都とも称された飛鳥京を整備したのも斉明女帝でした。今も残る酒船石・亀形石・亀石・須弥山石など謎に満ちた石造物も女帝の美意識の象徴と考えられています。

飛鳥京に残る亀の姿の石造物(亀形石)。左の貯水槽から水が流れ出る庭園施設と考えられている。(写真:T.TAKANO)
■牽牛子塚古墳について
牽牛子塚古墳ってどんな古墳

整備前の牽牛子塚古墳。夾紵棺片などの出土遺物、八角形墳であることなどから、斉明天皇の真陵の有力候補と目されていた。(写真:T.TAKANO)
古墳と聞くと、多くの人が仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)のような巨大な前方後円墳を思い浮かべるのではないでしょうか。
しかしながら、7世紀中頃からの終末期古墳時代になると天皇の墳墓といえどもその規模は縮小されてきます。
ただ、その墳形が古代中国思想で天下の支配者のシンボルとされる八角形になったり、石室がより精巧な切り石を用いた造りになったり、棺の素材に漆を塗り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が用いられたりする特徴が現れてきます。
牽牛子塚古墳の外観は、最大径約33m、高さ約4mという規模の八角形墳丘です。その内部には、約80トンの巨大な凝灰岩をくり抜いた横口式石槨を備えています。その構造は、中央に仕切り壁を設け、南側に開口する長方形の2つの石室からなるという精巧極まるものでした。

中央の柱で仕切られ、二つの墓室に分かれた牽牛子塚古墳 の横口式石槨。(写真:T.TAKANO)
出土品としては、二棺分の夾紵棺片約100個・棺を飾る金銅製金具・七宝製亀形金具・銀線で繋いだ多数のガラス玉など第一級の遺物が発見されました。
八角形の墳丘は、30㎝四方に加工されたレンガ状の凝灰石に覆われていたことが判明。その姿は、八角形の石のピラミッドという形状を呈していたのです。
『日本書紀』に記された斉明天皇陵

復元された牽牛子塚古墳 。八角形の石のピラミッドを彷彿させる外観に圧倒される。(写真:T.TAKANO)
斉明天皇は、出征先の筑紫で661年に崩御します。
『日本書紀』(天智紀六年の条)によると
「天豊財重日足姫天皇(あまとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)と間人皇女(はしひとのひめみこ)とを小市岡上陵(をちのをかのうへのみささぎ)に合(あわ)せ葬(かく)せり。是の日に、皇孫(みまご)大田皇女(おほたのひめみこ)を、陵の前の墓に葬(かく)す」
との記述がみえます。
天豊財重日足姫天皇は、斉明帝のことです。間人皇女は、女帝の娘で中大兄皇子の妹、第35代孝徳天皇の皇后で665年に死去。大田皇女は女帝の孫(父は中大兄皇子)で、大海人皇子妃。後に持統天皇(大田皇女の同母妹)の命で、非業の死を遂げる大津皇子の母にあたります。
『日本書紀』からは斉明天皇の御陵は、女帝と間人皇女の合葬墓であり、隣接する大田皇女の墓を従えた天皇・皇女の女性三代が眠る古墳であるということが読み取れるのです。
現在、宮内庁の定める斉明天皇陵として、奈良県高取郡高取町にある車木ケンノウ古墳(円墳・径30m)が、越智崗上陵として治定されています。しかし、この古墳を斉明女帝の真陵と考える学者・研修者は皆無といっても過言ではありません。しかも、この陵墓は古墳であるかどうかも疑わしいのです。

宮内庁が斉明天皇陵として治定している越智崗上陵。
斉明天皇真陵の条件とは

牽牛子塚古墳から出土した夾紵棺を飾ったと考えられる七宝製亀形金具。(写真:現地案内板より)
多くの学者や研究者が斉明女帝の真陵として、牽牛子塚古墳を最有力候補としながら、その周囲にある岩屋山古墳、小谷古墳も有力とし、それぞれの視点で論争を交わしてきました。斉明天皇の真陵としての必要条件を整理してみると以下の5点に絞られます。
① 合葬墓であること
② 墳形が八角形墳であること
③ 石室は横口式石槨か終末期に分類される横穴式石室であること
④ 棺が夾紵棺(布などを型に漆を幾層に塗り固めた棺)であること
⑤ 大田皇女の墳墓が間近に存在すること
この5つの条件を全て満たす古墳が斉明天皇の真陵にふさわしいと考えられるのです。では、この条件を牽牛子塚古墳・岩屋山古墳・小谷古墳に当てはめてみましょう。〇=適当、△=可能性あり、×=可能性はあるが弱いとなります。
●牽牛子塚古墳
①〇 ②〇 ③〇 ④〇 ⑤〇
●岩屋山古墳
①△ ②× ③〇 ④△ ⑤×
●小谷古墳
①△ ②× ③〇 ④△ ⑤×
このように分類すると、すべての条件を完璧に満たすのは牽牛子塚古墳しかありません。
⑤の大田皇女の墳墓は2010年12月、牽牛子塚古墳発掘現場の一画から発見され、越塚御門古墳と名付けられました。
こうしたことから、現在ではほとんどの学者・研究者が牽牛子塚古墳こそ斉明天皇の真陵と確信するようになったのです。

斉明天皇の陵墓として有力候補の一つ岩屋山古墳。牽牛子塚古墳を 改葬墓と考える学者もいる。(写真:T.TAKANO)
大田皇女の墳墓・越塚御門古墳

整備事業前の越塚御門古墳。
2010年12月、牽牛子塚古墳発掘現場の一画から発見された越塚御門古墳。発掘された遺構は、底石の上に棺を納めるための墓室を持つ天井部の石を乗せるという構造で、明日香村にある鬼の俎板・雪隠古墳遺構と同じスタイルの横口式石槨でした。

明日香村に残る鬼の俎板。横口式石槨の底石部。(写真:Wikipedia)

鬼の雪隠。横口式石槨の蓋石。(写真:Wikipedia)
墳丘の破壊が著しく、副葬品も発見されませんでしたが、赤と黒の漆膜片が数10点出土しました。
被葬者は漆塗木棺に埋葬されたいた可能性が高く、このことからその身分は天皇より一段下がる皇子・皇女と推測され、『日本書紀』の記述から被葬者は、大田皇女以外には考えられないとともに、牽牛子塚古墳=斉明天皇陵説の決定打となったのです。
三代の貴婦人が寄り添うように眠る聖域

復元された牽牛子塚古墳全景。左側に越塚御門古墳がある。
この地には、斉明天皇・間人皇女・大田皇女と、母・娘・孫の三代の貴婦人が寄り添うように眠っていることになります。牽牛子塚古墳から越塚御門古墳を眺めると、まるで斉明天皇が孫娘の大田皇女を優しく抱いているかのようです。
間人皇女は、孝徳帝の皇后でありながら政治的な理由で、母(斉明帝)、兄(中大兄)とともに夫を難波宮に置き去りにし飛鳥に戻りました。孝徳帝は、崩御の時を迎えるまで、去って行った彼女を想い続けたともいわれています。おそらくは、間人も同じような思いであったのではないでしょうか。
大田皇女は、夫・大海女皇子との間に大伯皇女(おおくのひめみこ)・大津皇子を設けますが、その成長を見ることなく20歳前半でこの世を去りました。
激動の飛鳥時代をリードした斉明女帝にとって、決して幸多い人生を歩んだとはいえない娘(間人皇女)と孫(大田皇女)は、常に心の片隅から離れない存在であったのでしょう。
自分の死後、二人をその懐に抱き永遠の眠りに就くことを望んでいたとしても不思議ではありません。その想いを天智天皇が叶えたのが牽牛子塚古墳・越塚御門古墳であったとも考えられるのです。
【前編】はここまで。【後編】では、「牽牛子塚古墳等整備事業」として、整備された現在の牽牛子塚古墳と越塚御門古墳についてお話ししましょう。
【後編】はこちらから
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