皆さんは「雑賀衆(さいかしゅう)」はご存じでしょうか?
戦国時代、紀伊(現在の和歌山)に存在していた地侍集団で、「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」などと言われた、伝説の鉄砲使いの傭兵集団です。
雑賀衆を率いた雑賀(鈴木)孫一
戦国時代は「越後の上杉」や「甲斐の武田」のように、その地方を治める大きな勢力が存在していることがほとんどです。
しかし、紀伊にはそのように地方の実権を握っている唯一の勢力というものはありませんでした。
というのも、当時の紀伊は神道の熊野三山や真言宗の高野山などが関係した寺社勢力が強く、地域ごとに点在する集団がそれぞれ大きな力を持っていたからです。
雑賀衆も、この寺社勢力の一つでした。
さて、少し知っている人なら、雑賀衆といえば鉄砲を思い浮かべる人も多いでしょう。
紀伊には「紀の川」という海に繋がった大きな川があり、海運が発達していました。
紀伊の雑賀衆と、そのお隣の根来衆(ねごろしゅう)という勢力は、種子島や沖縄、鹿児島、土佐、さらに中国とも交易していたと言われており、種子島に伝来した鉄砲もかなり早い段階で伝わっています。
そしてこれを元に、根来衆の鍛冶屋が鉄砲の試作を完成させ、雑賀衆の職人たちの手によって量産に成功するのです。

こうして、雑賀衆は鉄砲を使った傭兵集団として評判になり、全国各地の戦いで招集されることになります。
■内部分裂と「最強傭兵集団」の終焉
1570年ごろ、織田信長と一向宗の総本山である本願寺との戦いが始まります。雑賀衆の中にはこの一向宗の門徒が多く存在しており、彼らはすぐに本願寺の救援に向かうと、信長を苦戦させる活躍をみせたといいます。

しかしこれによって雑賀衆は信長に目をつけられてしまい、まもなくその制圧のために6万もの大軍が押し寄せてくるのです。
この時、隣の根来衆や、雑賀衆の中でも、一向宗の門徒が少ないグループは信長側に付いてしまいます。
はた目には、このような事態になってはもう終わりか、と思う所ですが、なんと彼らはその後1ヶ月もの間応戦し、最後は停戦にまで持っていきました。
こうした雑賀衆の活躍があったものの、残念ながら本願寺は信長に降伏することになります。そしてこれをきっかけに、雑賀衆の内部には大きな亀裂が入ってしまい、内紛が多発したり、近隣の勢力とのいざこざが増えたりしました。
それでもなお、この時点でも雑賀衆は強力な傭兵集団として成立していました。

決定的な事件が起こったのは、本能寺の変で信長がこの世を去ってからでした。その後、雑賀衆と根来衆は徳川家康の要請を受けて、豊臣秀吉の居城である大阪城へと攻め上がります。
特に大きな争いにはなりませんでしたが、これによって秀吉の怒りを買い、秀吉は10万もの軍勢で紀州を征伐にかかります。
信長が攻め入ってきた時と違い、雑賀衆はこれまでの内紛によってボロボロの状態でした。寝返りをする者も多く現れ、紀州の各地方は一瞬で攻め落とされてしまいます。
そして残党たちは、太田城で秀吉の「日本三大水攻め」の一つに数えられる大規模な水攻めにあい、ついに雑賀衆は滅亡してしまうのです。
素晴らしい武勲を挙げた集団でありながら、戦国の世に翻弄され、悲劇の結末を迎えたのです。
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