戦国時代初期の名将「太田道灌(おおた・どうかん)」は、あまり知名度が高くありません。
関東に住んでいる人は名前を1度は聞いたことがあり、銅像などから知っている人は多いかも知れません。
太田道灌(Wikipediaより)
その生涯を調べてみると、武将として数々の武勲を立て、歴史になお残すにふさわしい「名将」だったことが分かります。
今回はその太田道灌の、知る人ぞ知る人生について追ってみます。
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彼が生まれたのは永享4年(1432年)。才人と呼ばれるに相応しく、子供の頃からその才覚を表していました。
文武両道で「東国無双の案者(知恵者)」と呼ばれていた父の太田資清(道真)の影響もあったのでしょう。幼少期、すでに鎌倉の建長寺や足利学校といった当代随一の学問の場で頭角を現しています。「五山無双の学者」とまで呼ばれていました。
また、彼の名前を聞いて、まず多くの人が思い浮かべるのが「江戸城を建城した」ということではないでしょうか。
そう、のちに築城名人と言われるほどに、道灌は築城を得意としていました。
それだけではなく、彼は戦場でも多くの策を編み出しています。
戦のイメージといえば、大将同士の一騎打ちが一番に頭に浮かびますが、当時も騎乗している武将がお互いに名乗りあいをして一騎打ち、あるいは合戦をするというやり方が一般的でした。
それを、道灌は変えてしまうのです。

江戸城
一騎打ちが主流の戦い方だと、足軽は大将の一騎打ちをサポートするという役回りになります。
そこに目を付けた道灌は、足軽のみで部隊を編成し、騎乗している相手の武将を囲んで、引き倒すなどして戦う方法へと変えたのです。
一騎打ちは源平合戦から続いていた戦法ですが、それを彼が様変わりさせたと言われています。
■悲劇の暗殺、無念の最期
このように、学問や戦術など様々な分野での才能を持ち合わせていた太田道灌。彼の名はたちまち世に知れ渡ります。
道灌が家臣として仕えていた扇谷上杉家の勢力はますます増えていきました。
しかし、戦国時代は家同士の争いも多い時代でした。山内上杉家は、扇谷上杉家が栄えるのをよしとせず、太田道灌を失脚させようと企みます。
そこで山内上杉顕定は、道灌と主君を仲違いさせることにしました。
実は、道灌の主君である扇谷上杉定正は、周囲からの信頼の厚い道灌のことを目障りに感じていたのです。
その心情を上杉顕定は見逃しませんでした。偽りの噂を流し、それを上杉定正は信じてしまいます。

川越の太田道灌像
文明18年7月26日(1486年8月25日)、主君である上杉定正に招かれた道灌は、すすめられるままに湯浴びをします。
その入浴中に、定正から命令を受けた曽我兵庫から切りつけられ、彼は絶命しました。
いくら名将といわれた太田道灌でも、湯浴み中の丸腰状態では、抵抗もできません。
これほど頭のいい道灌が、なぜ自分に身の危険が迫っていることには気付かなかったのでしょう?
実は、太田道灌という人は敵に対しての警戒心はありましたが、身内(主君)に対しては無防備だったのです。自分の主君は絶対に味方だと思っていました。
しかし彼は、そんな信用していた主君からの裏切りに遭い、無念の最期を遂げたのです。
参考資料
- 和樂web
- 刀剣ワールド
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan