後に捲土重来を果たした頼朝に仕え、その懐刀として活躍した景時は、単に武力ばかりでなく歌才にも秀でた文武両道の士でした。
頼朝主従(右)をかくまう景時(中央)。国周「明治座新狂言 石橋山軍記」
そんなところも都人出身の頼朝から気に入られる要因だったのかも知れません。
今回は頼朝と景時が歌を交わす、ユーモア精神にあふれたエピソードを紹介したいと思います。
■上洛の道中、遊女たちに囲まれた頼朝主従のやりとり
時は建久元年(1190年)10月18日。上洛のために鎌倉を発った頼朝一行が、遠江国の橋本駅(現:静岡県浜名郡新居町)までやってきました。ちなみに駅は「うまや」です。
現地に到着すると遊女たちが鎌倉殿を一目見ようと大勢押しかけ、たくさんの贈り物を献上されたとか。
「アンタが鎌倉殿かい?いい男だねぇ」
「今日はもう疲れたろ?今夜はウチで遊んで行きなよ」

群がる遊女たち(イメージ)
やれやれ、色男も困ったものだ。そう言えば、蒲冠者(源範頼。演:迫田孝也)の母も遠州池田(現:静岡県磐田市)の遊女だったな。
かつての父上(源義朝)も、こんな感じでモテたのだろうか……頼朝が鼻の下を伸ばしていると、景時が咳払いを一つ。
「……御殿。先を急ぎますぞ」
「わ、わかっておる」
もう外に女を作るのは(頼朝自身も、御家人たちも)こりごり……とは言え、遊女たちから贈り物をもらった以上、何も返さないのはマナー違反。そこで頼朝は、景時に歌を詠みました。
はしもとの 君にハなにか わたすへきまったく、こういうところだけはマメなんだから……またつまらぬ見栄で散財させぬよう(放っておけば、モテたい一心で朝廷への献上品さえばらまきかねません)、景時は下の句で釘を刺します。
【意訳】橋本のカワイ子ちゃんたちへの返礼は、何がいい=何を渡すべきだろうね?
たゝそ満かハの くれてすきはや
(ただそまがわの くれてすぎばや)
【意訳】その辺の丸太でもくれてやりゃいいんじゃないですか?何でもいいからさっさと行きましょうや。

「丸太でもくれてやって、さっさと先に急ぎましょう」景時の投げやり?な回答(イメージ)
そ満かハ(杣皮)とは杣(そま。木材を供給するための山)から伐採して、樹皮がついたままの丸太。杣の表面(皮)に生えているから杣皮とも。
くれ(榑)も同じ意味で、これは「くれてやる」とかけています。すき(杉、過ぎ)はスギの樹と、さっさと通り過ぎる意味がかかっていますね。
また伐り出した杣皮を流して運ぶ川を杣川(そまかわ)と言い、川が流れるように「さっさと行かない(川を過ぎない)と日が『暮れ』ちまいますよ」という景時の焦りが現れているようです。
頼朝にとって秘書的な存在でもあった景時のこと、恐らく道中のタイムキーパー役も担っていたのでしょう。
■終わりに
於橋本驛。遊女等群參。有繁多贈物云々。先之有御連歌。けっきょく頼朝はここでかなり散財したらしく、馬の鞍やくくり染めの布地などを贈って彼女たちを喜ばせた……と『増鏡』は伝えています。
はしもとの君にハなにかわたすへき
たゝそ満かハのくれてすきはや 平景時
※『吾妻鏡』建久元年(1190年)10月18日条
「……御殿」
「平三(景時)が『そまかわ』でもくれてやれと申したゆえ、『染ま』った布と『革』の鞍を贈ったまでじゃ。文句あるか」
「やれやれ……」

頼朝と景時の凸凹コンビ。何だかんだで気は合いそう(イメージ)
女好きのチャラ男気質な頼朝と、堅物だけどユーモアを解さぬでもない景時。そんな凸凹コンビのやりとりは、何だかコントみたいですね。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、こういうシーンを挟んでくれたら嬉しいですが、尺の都合でどうでしょうか。ダメ元で楽しみにしています。
※参考文献:
- 菊池威雄『鎌倉武士の和歌 雅のシルエットと鮮烈な魂』新典社、2021年10月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan