■天皇から頼りにされた弓削道鏡

「日本三大悪人」というカテゴリーを、皆さんはご存じでしょうか。

日本では、特に戦前まで、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)・平将門・足利尊氏が、日本史上屈指の悪人とされていたのです。


今では平将門や足利尊氏は「どこが悪人?」という感じですが、未だに悪いイメージが残っているのが、奈良時代に活躍した僧侶・弓削道鏡です。今回は彼の悪評を見直してみましょう。

弓削道鏡は、当時の孝謙天皇に取り入り、僧でありながら政治家として大きな権力を得たことで知られています。

道鏡は700年、現在の大阪府八尾にあたる河内国若江郡に生まれました。そして仏門に入り、法相宗の高僧の義淵(ぎえん)の弟子となります。

女性天皇をたぶらかした悪僧・弓削道鏡。「日本三大悪人」のひと...の画像はこちら >>


義淵(Wikipediaより)

また東大寺を開いた高名な僧・良弁からサンスクリット語を学んでいたため、禅にも通じていました。こうしたことから、道鏡は宮中の仏殿に入ることを許されていたようです。

さて761年10月、平城宮を改修するために一時的に都を近江国保良宮に移していた時のことです。時の権力者・孝謙(こうけん)天皇は体調を崩してしまいました。ちなみに孝謙天皇は女性です。

異色すぎる平安文学「とりかへばや物語」にも登場する女性皇太子は実際に存在した

この時に、加持祈祷を行うなどして懸命に看病したのが道鏡でした。これがきっかけになったのか、この頃から孝謙天皇は道鏡を寵愛するようになります。


■「神託事件」の発生

さて769年、皇室で「宇佐八幡宮神託事件」が発生しました。道鏡の弟である弓削浄人(ゆげの・きよひと)と大宰府の主神である中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が、「道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる」という神託を受けたと天皇に進言したのです。

この天皇は「称徳天皇」ですが、実際には孝謙天皇と同一人物です。再即位したことで呼び名が変わっていたのでした。

称徳天皇は、道鏡が天皇になるのなら喜ばしいと考えます。しかし、役人の中には反対する者が大勢いました。そのため、神託の真偽を確かめるために和気清麻呂(わけのきよまろ)という人物が宇佐八幡宮に派遣されます。

女性天皇をたぶらかした悪僧・弓削道鏡。「日本三大悪人」のひとりとされた彼の悪評は捏造!?


大手町の和気清麻呂像

そして彼が受けた神託は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」というものでした。つまり、「天皇は皇族の血筋を持つ者が継いでゆくべきで、道鏡のような奴は一刻も早く追放せよ」というのです。

今の時代から見れば、当時の神託とやらはずいぶんいい加減だったんだな……という感じですが、ともあれこの神託により、道鏡が天皇になるという事態は避けられました。

これに怒った称徳天皇は、和気清麻呂に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という屈辱的な名前を与えて流罪にしてしまいます。


女帝・称徳天皇が和気清麻呂に下した「穢麻呂(きたなまろ)」という汚そうな名前への強制改名の刑罰

また、道鏡自身も和気清麻呂を暗殺しようと試みますが、突然雷や雨によって失敗に終わりました。

この事件の翌年に称徳天皇は病で崩御。同時に、道鏡の権威も失墜します。軍事指揮権は、太政官だった藤原永手(ふじわらのながて)や吉備真備(きびのまきび)の手に渡り、4名の親族が流刑となりました。

道鏡自身は、下野国の下野薬師寺別当に左遷となりそのまま死没。死後は一庶民として葬られたそうです。

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孝謙天皇(Wikipediaより)

■悪評は藤原氏の捏造?

このように天皇を誑かした悪僧として知られている道鏡ですが、実は、このストーリーをきちんと記した具体的な記録は『続日本紀』以外には存在しません。

そして『続日本紀』は藤原氏と関係が深い史書で、道鏡と藤原氏は対立関係にありました。わざと道教を貶める書き方がなされた可能性もあります。

近年ではこうした「道鏡悪人説」に対する疑問の声も出ており、史料の再研究が行われています。

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道鏡をめぐる『続日本紀』の記述で怪しいとされているのは、以下の内容です。

①道鏡が失脚した後も、なぜか和気清麻呂は昇進していない。

②道鏡は「左遷」はされているが、僧籍を離れて俗人に還ること(還俗)はしていない。皇位を奪おうとしたにしては処分が軽い。

ではなぜ、道鏡を貶めるような記述がなされたのか。その理由は、孝謙天皇(称徳天皇)を貶めるためだったのではないかと考えられます。

少し細かい話になりますが、有名な「大化の改新」以降、天皇家は「天智天皇系」と「天武天皇系」の2つの派閥に分かれ、皇位を巡って対立していました。

実は、孝謙天皇(称徳天皇)は、このうち「天武天皇系」の最後の天皇で、その後はずっと「天智天皇系」の血筋が続いているのです。

つまり、後世の人々が「天武天皇系の天皇にはろくな人がいなかった」ということを強調するために、歴史を改竄した可能性もあると言えます。

さらに、最初に挙げた「日本三大悪人」に加えられたことで、道鏡の悪いイメージはさらに強調されてしまいました。この「日本三大悪人」は明治以降の皇国史観に基づいて考案されたもので、その基準は「自分が天皇になろうと企んだ人々」でした。

よって現代の視点から見れば、弓削道鏡って何か悪いことしたの? という感じでもあります。自分が天皇になろうとしたという点は足利尊氏や平将門も同じですが、この2人を「悪人」とする人は今はいないでしょう。

むしろ今「三大悪人」を設定するとしたら、島原の乱の元凶になった松倉父子など、領民に対して悪政を敷いた人物あたりになるのではないでしょうか。


歴史上の人物を評価する際は、実証主義的な観点もさることながら、今現在の私たちの価値観に自覚的になることも大切です。

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