かつて日本海軍に存在していた「史上最速」を誇る駆逐艦・島風。最近では某有名ゲームでも名前を知られることになりました。
1943年5月5日、終末公試で全力運転中の「島風」(Wikipediaより)
今回はその島風の誕生の経緯と、最期の時を迎えるまでを辿ってみます。
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そもそも「駆逐艦(くちくかん)」ってなに? 戦艦と何が違うの? と思う方も多いと思います。
まず前半で「駆逐艦の役割」、そして後半で本題の「島風」について記していきます。
軍隊での船舶全般を指す「艦艇」は、「戦闘する」艦と「それを支援する」艦の2種類に大別できます。
旧日本海軍を例にとると、「戦闘する艦」の代表例として戦艦、巡洋艦があり、「支援する艦」として駆逐艦が存在するわけです。
そのサイズは戦艦や巡洋艦の方が大きく、駆逐艦は小さい傾向にあります。
次に駆逐艦の役割ですが、本来の駆逐艦の目的は魚雷艇の攻撃から艦隊を守ることで、英単語では「デストロイヤー(destroyer)」と言います。
ただ、次第に用途は広がり、現在では駆逐艦の役割といえば偵察から船団護衛まで多岐に渡っています。
一般的なコンテナ船での最高速力は24ノット程度で、旅客フェリー「さんふらわあ」も24ノットで運航。メートル法で表すと時速約44kmなので日常の車の運転速度と同じ程度です。
現代の軍艦では30ノット前後が主流で40ノット(時速約74km)が出せるのはジェットフォイルなど一部の高速船に限られます。
■「島風」誕生すれど…
さて「島風」ですが、日本は日露戦争勝利後の1907年、仮想敵国をアメリカに設定しました。
いずれ海上戦でアメリカ側を撃破するには、戦艦同士の決戦を行う前に駆逐艦や軽巡洋艦などで敵の戦力を少しでも削ぎ落としていく必要があります。
そのためには駆逐艦の性能を高めて、搭載する魚雷の威力も高めておかなければなりません。
日本海軍では、大正年間に1,300トンクラスで最高速力39ノットの駆逐艦ができていました。しかしさらに1939年には、公式排水量3,000トンクラスながら速度40ノット強の高速駆逐艦「島風」の開発が計画されます。先述したジェットフォイル並みの高速船です。

佐渡汽船ジェットフォイル「つばさ」
こうして造られた島風は燃費も良く、吹雪型の航続距離が14ノットで5,000海里(9260km)だったのに対し、島風は18ノットで6000海里(1万1110km)と、「速くて低燃費」という高性能ぶりでした。
そんな島風には、敵戦艦に見つからないように高速で迂回接近し、遠距離から秘密兵器「酸素魚雷」を一斉に発射する奇襲戦法が期待されます。
しかし当初16機が建造される予定だった島風は、実際には1943年5月に竣工した1機のみとなってしまいます。
なぜそんなことになったのか、理由は2つ。まず1つは、駆逐艦は巡洋艦とは違って敵の距離や位置を正確に測る高性能測距機や射撃管制能力を持つことができず、遠距離雷撃の効果が薄かったためです。
2つ目は、戦いが海上戦から空中戦の時代に変わったためです。
島風は、結局本来の遠距離魚雷で力を発揮することができず、任務と言えば艦隊や輸送船団護衛がほとんどでした。
そして1944年11月11日、島風はレイテ島北西部のオルモック湾でアメリカ軍の空襲を受け撃沈されました。竣工からわずか1年6か月後のことでした。

1944年11月11日、空襲を受ける島風。この写真の撮影直後に爆発・沈没した(Wikipediaより)
高性能にも関わらず消えてしまった島風ですが、時代がもっと早ければもう少し活躍の場があったかも知れません。言い方を変えれば、実際に戦場で力を発揮するには少々時代遅れだったのでしょう。
高速船だったのに、歴史に登場するのが遅かったというのは、なんとも皮肉な話です。
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