戦国時代、「母衣武者(ほろむしゃ)」と呼ばれた武将がいました。
永青文庫蔵「一の谷合戦図屏風」より、平敦盛を呼び止める熊谷直実。
前田利家などもこの「母衣武者」にあたり、彼らはさまざまな意味で優遇されたエリート武将でした。
まず母衣(ほろ)とは何なのかというと、甲冑の補助的な武具のことです。鎧の背中に大きな布を挟み、風で膨らませて戦場の矢などから身を守る形で使われていました。
中世の戦の様子を描いた作品に、風船やパラシュートを背負ったような武士が描かれていることがありますが、これが「母衣武者」です。
武士の背中に風船?選ばれし者の証「母衣(ほろ)」の意味や役割ってなに?
先に戦国時代と書きましたが、実際には母衣はもっと昔から存在していました。
もともと、母衣は全身を被うように着用する防寒具の一種でした。しかし平安末期になると、騎乗の際に背中に装着して、風を使って布を大きく膨らませるという使い方がはやり始めました。
この頃、戦の主要武器といえば弓矢だったので、背後から急所が狙いにくくなる母衣は防御面で有効だったのです。

戦が集団戦になったのは室町時代からです。このあたりから、母衣は防御面よりも見た目が重要視されるようになりました。例えば、竹や鯨のひげなどを骨組みにして、風が吹いていなくても膨らんでいるように見えるものが使われるようになりました。
なぜそんな形になったのかというと「目立つため」でした。
■戦国時代の母衣武者
この傾向がますます顕著になるのが戦国時代です。鉄砲が主要武器となっていくなかで、母衣はもはや防御のためのアイテムとしては役に立たなくなり、装飾具としての役割が大きくなっていきました。

室町時代の、母衣を膨らませるための籠(Wikipediaより)
そして戦国大名たちは、戦果が期待できるような優秀な人物だけに母衣をまとわせるようになります。母衣武者は、エリートの証となったのでした。
これは大変な名誉である一方、母衣をまとう武士たちは討死を覚悟して戦場に出なければなりませんでした。何しろ目立ちますから、どのような形で狙われても不思議ではありません。
当時、母衣を着用していた武士の集団は「母衣衆」と呼ばれ、有名なものとしては織田の母衣衆があります。織田の母衣衆にはさらに「黒母衣衆」と「赤母衣衆」があり、それぞれ10名ほどで構成されていました。
かの前田利家は、このうち赤母衣衆の筆頭として活躍していたされています。今も金沢市では、「金沢百万石まつり」の中で、真っ赤な母衣をまとって母衣衆の姿を再現した姿を見ることができます。

金沢城公園・前田利家像
そして、母衣武者を重んじるのは、戦国大名たちにとっても暗黙のルールだったようです。当時、母衣をつけた武士を捕えたとしても、獄門にかけるのはタブーでした。さらし首になることでその首が成仏ができないと考えられていたのです。
よって母衣武者を討ち取ると、その首は母衣で包まれて丁重に扱われました。母衣武者は死してなお、味方だけでなく敵方にも重んじられた存在だったのです。
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