NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、主役の北条義時(演:小栗旬)や源頼朝(演:大泉洋)と同じくらい、いやそれ以上にといってもいいほど注目を集めたのが、上総介広常(演:佐藤浩市)。4月17日放送で非業の最期を迎え、SNSではその死を悼む声や頼朝に対する怨嗟の声が湧き上がりました。


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死してなお、上総広常の人気は続き「大河ドラマの中の話だけではなく、実際はどのような人物だったのか知りたい!」という人も増加中です。今回は、そんな上総介広常の正式名・兵力・誅殺の理由など、真相に迫ってみました。

■上総介広常の正式名や家系・経歴とは

桓武平氏の子孫で上総氏を名乗る
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上総介広常は桓武天皇を祖とする桓武平氏の傍流だった。(写真:Wikipedia)

上総介広常の正式名は平広常(たいらのひろつね)で、本名が上総広常(かずさひろつね)となります。

上総介広常の先祖を溯ると桓武天皇に行き着きます。つまり広常は平清盛と同様に桓武平氏なのです。清盛の家系が嫡流とされる平国香から続くのに対し、広常は国香(くにか)の弟の平良文(たいらのよしふみ)の末裔になります。

平良文は朝廷から相模国の賊征伐を命じられ、京から東国に下向します。また従弟にあたる平将門の乱では、追討軍として活躍しました。その後、良文は陸奥守・鎮守府将軍として東北経営にあたりますが、任期が終わると関東に戻り、相模国・下総国に所領を広げました。

良文の孫の平忠常(たいらのただつね)の時代になると、その所領は常陸国・下総国・上総国におよぶ広大なものとなります。その結果、各国の国司とのトラブルが発生し、ついに忠常は朝敵と見なされ朝廷軍の征伐を受け、降伏・処刑されてしまいました。


しかし忠常の子供たちはそれぞれに常陸国・下総国・上総国に分散し、その所領を受け継ぎ上総氏・千葉氏などを名乗っていくことになるのです。

上総氏の初代は忠常の子の常将(つねまさ)で、その4代目が広常となります。こうしたことから、上総介広常の正式名は平広常(たいらのひろつね)、本名が上総広常(かずさひろつね)となるのです。

ちなみに通称となっている上総介は上総国の次官で官位を表します。つまり、上総介広常とは「上総の国のナンバー2の広常」ということで、さしずめ「千葉県の副知事」といったところでしょう。

上総介広常は最初から頼朝の味方だった
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青年期の広常が郎従した源義朝。(写真:Wikipedia)

上総介広常の正確な生誕年はわかっていません。ただ家督を継いでいない青年期は、源頼朝の父義朝に従っていました。義朝は京都にいたものの、父の為義と不仲により東国に下向します。

義朝は為義の所領である安房国に入りますが、その後、上総国に本拠を移し上総氏・千葉氏などの後援を受け「上総御曹司」と呼ばれました。

平氏の上総氏・千葉氏が源氏の義朝を擁立したのは、鎌倉に本拠をおいた義朝の先祖・源頼義・義家父子との強い結びつきからであったのは間違いないでしょう。

若き日の上総介広常は、関東武士団の統率を目指す源義朝とともに戦い、義朝が上洛するとそれに従います。
保元・平治の乱では、義朝の長男義平のもとで活躍し「義平十七騎」の一人に数えられています。

しかし、義朝は平治の乱で平清盛に敗れ死亡、頼朝は伊豆に流されてしまいます。広常は戦線を離脱、執拗な平氏の探索を逃れて上総に戻りました。そして父上総常澄(かずさつねずみ)が亡くなるとその家督を継いだのです。

このような経緯から、上総介広常は頼朝が伊豆で挙兵した時点から頼朝側であったと考えるのが妥当なのです。

その証拠として、上総介がいたからこそ石橋山で負けた頼朝は安房に上陸し、安心して上総を経由して下総に入れたのです。そして広常もその間に清盛側の上総国司など平氏側勢力を一掃し、頼朝軍に加わったのです。

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源頼朝。上総介は源義朝との深い絆から頼朝に味方した。(写真:Wikipedia)

■落ち武者同様の頼朝を助けた上総介

上総介広常の動員兵力は13,000人だった
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上総介の城館があったとされる布施の殿台。(写真:Wikipedia)

1180(治承4)年9月19日、再起を図るため隅田川辺に布陣する頼朝のもとに、上総介広常が着陣します。この時に上総介が率いていた兵力は『吾妻鑑』によると2万騎・『延慶本平家物語』では1万騎・『源平闘諍録』では1千騎とあります。


では、本当のところ上総介はどれくらいの兵力を持っていたのでしょうか。それを考えるには、当時の上総国の収入が分からなければなりません。

兵を養うのには財力必要となります。当時の財力は領土から生産される米や産物の量(石高・貫高)です。石高・貫高が大きければ大きいほど多くの兵を持つことができるのです。

上総介広常が本拠としていた上総国の石高は、安土桃山時代の1598(慶長3)年には、おおよそ38万石とされます。広常が上総国を支配したのは、これより400年前のことです。

鎌倉時代から室町時代に二毛作や稲の品種改良が行われ、農業が発展したことを鑑みて、米の生産量を大体7割位と想定しましょう。そうなると、平安後期から鎌倉初期の上総国の石高はおおよそ26万石と見積もれます。

一般に1万石で500人の兵を養えるとされますので、上総国をほぼ一国支配していた広常の有していた兵力は約13,000人ということになります。

しかし、広常は佐竹氏などと争っていましたので、傘下の兵全員を率いてくるわけにはいかなかったでしょう。仮に、国元に半数の兵を残したとしても7,000人近くの兵力となります。


上総介は1万騎には満たないものの、戦慣れした精兵の大軍を率いて頼朝と合流したのです。

頼朝の命運を握る存在だった上総介広常
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石橋山の合戦に敗れ、平家方の探索から身を隠す頼朝一行。(写真:Wikipedia)

一方、頼朝本軍はどれだけの兵力を有していたのでしょうか。石橋山合戦当時の頼朝軍は300人。援軍として間に合わなかった三浦勢400人を入れても総勢700人ほどでした。頼朝の敵で、東国における平家の代表だった大庭景親の動員兵力は3,000人とされています。

そう考えると、上総介の有する全兵力の13.000人が、いかに飛びぬけていたものであったか理解できるでしょう。

そして広常は義朝との深い絆から、上総の兵は自兵というよりも頼朝に供奉する兵であるという意識をもっていたのではないでしょうか。

上総介の兵を吸収することで、頼朝は石橋山敗戦の再起とさらなる飛躍に向け大きな一歩を踏み出しました。しかし、一方で頼朝の命運は上総介が握っていたことは誰も目から見ても明らかであったのです。

[その1]はここまで。[その2]では「上総介と頼朝の考えの違い」から起こった、頼朝による上総介広常誅殺の真相をご紹介しましょう。


「その2」はこちら

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