NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で非業の最期を迎えてもなお人気を博している上総介広常(演:佐藤浩市)。「ドラマだけではなく、実際はどのような人物だったのか知りたい!」という人も多く、そんな上総介広常の本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫ってみました。


「その1」では、頼朝軍700人、平家の代表・大庭景親軍3,000人に対し、上総介広常が13.000人もの兵を集め頼朝のもとに参陣。これにより頼朝が石橋山敗戦の再起とさらなる飛躍に向け大きな一歩を踏み出した……ところまで、ご紹介しました。

【真説 鎌倉殿の13人】上総介広常をもっと知りたい!本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫る【その1】

その2では、「上総介と頼朝の考えの違い」から始まった頼朝による上総介誅殺の真相をご紹介しましょう。

■上総介と頼朝の考えの違いとは

上総介広常に流れる独立心という血脈
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 坂東武士による東国独立が上総介の願望だった。(写真:Wikipedia)

上総介広常が頼朝を助けた最大の理由は、関東に坂東武士の独立国をつくることだったと思われます。しかし、頼朝の考えは全く違いました。あくまでも京都の朝廷の権威を後ろ盾にした権力の確立にあったのです。

頼朝は平家追討において木曽義仲に先を越された時、先手を打って後白河法皇に工作を行います。それによって得たものが『寿永二年十月宣旨』と呼ばれる宣旨で、これにより頼朝は一介の流人を脱し、実質上の東国支配者となりました。

そもそも坂東武士の多くは、桓武平氏の血筋を引いています。かれらの先祖の平将門や平忠常は、京都の朝廷とは一線を画し、東国は独立独歩でやっていこうという考えで乱を起こしたのです。

上総介は前述した通り、平忠常の直系子孫となります。
ですから先祖が夢見て果たせなかった東国独立という夢を頼朝にかけていたとしても何ら不思議はないのです。

東国は坂東武士の支配する場所
【真説 鎌倉殿の13人】上総介広常をもっと知りたい!本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫る【その2】


 広常の支配する上総国に干渉した平清盛。(写真:Wikipedia)

上総介がかつて主君と仰いだ頼朝の父義朝とともに保元・平治の乱を戦ったうえで、上総介はある教訓を得ていたのでないでしょう。それは、武士は中央の権力者である院や高級貴族のために戦うコマに過ぎないというものだったと思われます。

平治の乱で勝利した平清盛と平氏も、結局は高級貴族化していきます。そして、清盛は上総国に自分の近臣を国司として送りつけました。清盛の権威を笠に着る国司と対立した広常は清盛に勘当されてしまいます。中央政権の考え一つで、上総介一族が代々懸命に守ってきた上総国の支配に大きな危機が訪れたのです。

上総介の頼朝軍への参陣は、一つは中央勢力である平家政権との決別であり、もう一つは頼朝という旗頭を担いで、坂東武士が東国を支配するためのものであったのです。

■頼朝が上総介を誅殺した真相

成立当時の鎌倉幕府は朝廷の下での地方政権だった
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頼朝が創設した鎌倉幕府は朝廷の下に立つ地方政権だった。(写真:Wikipedia)

1192(建久3)年、頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉幕府という武家政権が成立します。しかし、幕府の支配は限定的で、あくまで朝廷権力を前提した地方政権でした。


鎌倉幕府が全国政権に発展するには、1221(承久3)年の承久の乱で朝廷権力を打倒するまで待たなければなりません。そして注目すべきは、承久の乱での勝者は、頼朝の源氏一族が滅亡した後の幕政指導者である北条政子・義時弟妹であり、坂東武士であったのです。

ここに頼朝が上総介を誅殺した真相が隠されています。要するに頼朝は平家に対抗して東国支配をするにあたり、なによりも朝廷(後白河法皇)の後ろ盾を必要としていたのです。

ところが頼朝軍を支えている最大勢力の上総介にはそのような考えは全くありません。朝廷に気を使う頼朝に対して、朝廷など無視して実力で東国経営を行えばよいという主張を行ったのでしょう。

こうした考えの違いから、頼朝と上総介の衝突が起きたと考えられます。自分の兵を持っていない頼朝は上総介に面と向かって強い命令を下せません。そうした状況が周りからは、上総介の態度が横暴に見えたのでしょう。二人の関係は、そんな悪循環に陥っていたと推測されるのです。

『吾妻鏡』の1181(治承5)年6月19日の条に「広常は普段から無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して下馬の礼をとらなかった」と記されている上総介像は事実であったと思われます。

頼朝が語った上総介広常誅殺の真相
【真説 鎌倉殿の13人】上総介広常をもっと知りたい!本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫る【その2】


 頼朝の命で上総介広常を殺害した梶原景時。
(写真:Wikipedia)

1183(寿永2)年12月、上総介は頼朝の命を受けた梶原景時に大蔵御所内で討たれました。

上総介広常誅殺の経緯について、源頼朝は7年後に上洛し、後白河法皇に次のように語ったと『愚管抄』に記されています。

「私が上総介を殺したのは、上総介が朝廷をないがしろにする言動によります。上総介は常々私に対し、なぜあなたはそこまで朝廷に気を使われるのか。それは見苦しいばかりだ。坂東武士に対し、朝廷であれ誰であれ、命令などできようものか。」

この言葉こそ、頼朝の上総介広常誅殺の真相でした。上総介の存在を許せば、頼朝が朝廷から叛乱軍とみなされる可能性があったのです。だから、頼朝は早々にその芽を摘んだのでした。

■まとめにかえて~上総介広常という男~

上総介広常に謀反という考えはなかったことは間違いないでしょう。もしその気があれば上総に戻り、兵を挙げれば当時の頼朝などあっという間に捻りつぶせたはずです。

歴史学者の野口実氏(京都女子大学名誉教授)は、『吾妻鏡』を詳細に読み込まれて、上総介の人物像について「いささか大風呂敷で露骨な大言壮語を吐くが、根は気の小さい、やさしい性格」と評しています。

広常からすれば、頼朝は若かりし頃ともに戦った源義朝の子であり、坂東武士の夢を叶えてくれる存在でした。
上総介はそんな頼朝に対し、主君であるとともに、親愛の情をもって接していたのではないでしょうか。

頼朝に対する上総介の不躾な態度は、決して頼朝を軽んじたものではなく、身近な者に対してのものであったのです。しかし、相手はそんな情が通じるような人間ではなく、冷酷で猜疑心の強い頼朝でした。そこに上総介の悲劇があったのではないでしょうか。

2回にわたりお読みいただきありがとうございました。飾り気がなく、情に厚く、心優しい勇将であった上総介広常。とても魅力的な人物であったように思われます。

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