では、彼の正妻はどうでしょう?パッと思い浮かばないのではないかと思います。彼女の名前は、「美賀君(みかぎみ)」。まさに彼女も、波乱万丈な人生を送りました。
一条美賀子
■慶喜に嫁ぐはずではなかった美賀君
美賀君(一条美賀子:いちじょう みかこ、徳川 美賀子)は、1835年(天保6年)に公家の今出川公久の娘として生まれました。涼しげな目元と通った鼻筋をもつ、美しい女性だったといいます。
実は美賀君は、徳川慶喜と結婚するはずではありませんでした。慶喜は一条忠香の娘である千代君と婚約していました。
しかし、結婚直前に彼女が疱瘡にかかってしまい、顔に疱疹が残ってしまったことから婚約は破綻。そこで千代君の「代役」になったのが美賀君でした。美賀君は、一条忠香の養子となっています。
■さびしい思いをした結婚生活
ピンチヒッターとして結婚することになった美賀君ですが、結婚生活も楽しいものではなかったようです。
まず、慶喜と彼の義祖母である徳信院との仲が非常によかったことがあります。
不仲夫婦? 10年間の別居婚生活を経験した徳川慶喜と一条美賀子の夫婦生活【前編】
不仲夫婦? 10年間の別居婚生活を経験した徳川慶喜と一条美賀子の夫婦生活【後編】
その後、美賀君は自殺未遂まで起こしてしまいます。
■大奥に入らなかった美賀君
「徳川将軍の妻たちは、大奥に入るのが普通」そう思っていませんか?
実は、美賀君は一度も江戸城大奥に入ることができませんでした。その理由は、慶喜が江戸城にいなかったから。

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)
将軍が不在では、妻も大奥には入れません。その当時、大奥は篤姫の名でも知られる天璋院(てんしょういん)が仕切っており、和宮の名でも知られる静寛院宮(せいかんいんのみや)もいました。
その後も、1867年(慶応3年)慶喜が京都で大政奉還を行い、江戸幕府は終焉を迎えます。慶喜は一度も江戸城には入らず、そのため美賀君も大奥に入ることはなかったのです。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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