実は、知れば興味のわくエピソードも少なくありません。
とくに今回紹介する次男「織田信雄(おだのぶかつ, のぶお)」は、波乱の世と言われた戦国時代を謎エピソード満載で突っ切り、最後まで生き残ってしまった興味深い人物でもあります。
■織田信雄の謎エピソード
1585年、織田信長の次男として誕生したのが織田信雄です。
当時の織田家は信長の指揮のもと、破竹の勢いで勢力を拡大。やがて兄の信忠や弟の信孝が各地で活躍するようになりますが、信雄はといえば、伊勢方面支配のために北畠家の婿養子となったくらいでした。
功を焦った信雄は、信長に無断で伊賀国に侵攻し、返り討ちにあいます。
敗戦したことを知った信長は大激怒しそうです。
■本能寺の変と信雄
1582年、織田家の家臣であった明智光秀が謀反を起こし、信長と信忠は自害に追い込まれます。
本能寺の変の報せを受けた信雄は、光秀に弔い合戦を仕掛けようとしますが途中で撤退しており、撤退理由については現在も不明のままです。
結局、信長の仇を討ったのは中国方面から帰ってきた羽柴秀吉で、その後は秀吉が天下を治めています。
■弔い合戦から逃げて行った謎行為
秀吉が信長の仇を討っている頃、信雄はなんと、信長の城であった「安土城を燃やしていた」のです。この時の火事で安土城は全焼しなかったものの、一部消失しています。
信雄が放火した理由については解明されていませんが、宣教師であるルイス・フロイスは「信雄が放火した」と記録していました。
それから信雄は、庶民から「無能の人」と噂されるようになったそうです。
■清洲会議
本能寺の変から1ヶ月後、信長の後継者を決めるための清州会議が行われます。次男の信雄は有力な後継者候補だったはずですが、後継者に決まったのは信忠の子、3歳の三法師でした。
そのため清洲会議後からは、信孝を後継者にしたかった柴田勝家と三法師を後継者にしたかった羽柴秀吉が対立します。
勝家陣営の動きに危機感を感じた羽柴秀吉は、清洲会議での約束を破り、信雄を担ぎ上げて当主にしました。
こうして当主になれた信雄でしたが、権力を掌握する目的だった秀吉により、すぐに安土城を追い出されてしまいます。
■徳川家康にも利用されかけるも謎行動で回避
安土城を追い出された信雄は激怒し、羽柴秀吉との関係が悪化。
織田信長の後継者になる機会を狙っていた徳川家康に言いくるめられ、「打倒・羽柴秀吉」を掲げ戦うことになるのです。
この戦いを「小牧・長久手の戦い」と言います。
状況はイーブンだったと言われていますが、信雄はなぜか徳川家康に内緒で勝手に降参。
険悪だったはずの羽柴秀吉と講和条約を結び、その後は忠実な家臣として仕えたのです。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan