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平清盛の権力を頂点まで引き上げた陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」とは?【前編】
■衝突近し、朝廷と延暦寺
後白河上皇のやり方に、延暦寺は怒ります。僧兵たちは、伊豆へ連行中だった明雲を道中で奪還した上で、朝廷に対して兵を向けようと戦の準備を始めました。
これに対抗して、今度は後白河上皇も武力行使を決意。比叡山への派兵を平重盛(清盛の嫡男)に指示しました。
平重盛(Wikipediaより)
これだけでも眩暈がするような地獄絵図ですが、ここで平家が登場したことで、事態は思いも寄らぬ方向に進展していきます。
命令を受けた重盛は、当時は内大臣を務めており、朝廷に忠実な立場でした。その一方で平家と比叡山は友好関係にあるので、両者の板挟みとなってしまいます。
苦慮した重盛は清盛に相談し、そこで清盛は後白河上皇をなだめて派兵を何とか食い止めようとします。
が、後白河上皇の度重なる頼みを断りきれなくなり、ついに兵を動員することを決断します。
そんな清盛の元に1177年6月1日、「鹿ケ谷の山荘で後白河上皇やその近臣たちが、平家を倒すための密議をしている」との密告がもたらされます。
俊寛や西光、藤原成親といった後白河法皇の側近たちが「打倒平家」の密議を行っていたのです。その場にいた多田行綱が、事の重大さに恐れをなして清盛へ密告したのでした。
■絶妙のタイミングで起きた「陰謀」
この報告を受けた清盛は、延暦寺に向かうために集結していた兵をそのまま鹿ケ谷へ向かわせ山荘を襲撃し、俊寛や西光、藤原成親らを捕らえます。
詮議の結果、俊寛は鬼界ヶ島に、藤原成親は備前にそれぞれ流罪となり、西光は死罪となり処刑されました。
この事件は清盛にとってあまりにも都合のよいタイミングで起きたため、清盛が仕組んだ謀略だったのではないかとも言われています。
それは、この時の清盛が友好関係にある延暦寺とは敵対したくないが、かといって後白河上皇の頼みを断る大義名分もなく、どちらも選べず進退窮まった状況に陥っていたからです。
清盛の謀略だったのか否かは別として、この事件により後白河上皇は多くの重臣たちを失う結果になりました。そして、清盛の娘である平徳子が嫁いでいた高倉天皇が自ら親政をするようになります。

高倉天皇(Wikipediaより)
こうして、清盛は天皇の親戚として絶大な権力をふるうようになり、福原京への遷都や清盛の孫である安徳天皇の即位などを独断で次々と行っていきました。
また、朝廷の要職を平家一門で独占し専横的なふるまいが目立つようになっていきました。
しかし、この時の平家の専横的な態度が全国各地の御家人たちの反発を買い、後の源平合戦へと繋がり平家を滅亡へと導いてゆくことになるのです。
このように、「鹿ケ谷の陰謀」は平家の勢力を強めたと同時に、その後の没落をも呼び込んでいったのです。
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