やがて正室(※)として比企一族の娘・比奈(演:堀田真由。
(※)八重=金剛(演:森優理斗。北条泰時)の生母である阿波局は、実家の格が低いため前妻であっても側室扱いでした。
北条朝時。北条の嫡男として期待を寄せられるが……「義烈百人一首」より
今回はその長男・北条朝時(ほうじょう ともとき)を紹介。果たしてどんな生涯を辿るのか、そして大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には登場するのでしょうか。
■北条家の嫡男として
北条朝時は建久4年(1193年)に誕生しました。通称は次郎(金剛みたいにカッコいい幼名はなかったのでしょうか)。
……あれ?大河ドラマだと比奈が初登場の第22回放送時点では、まだ義時と結婚どころか、合意すらしていないはず。
物語は富士の巻狩り・曽我兄弟の仇討ちが行われる直前の建久4年(1193年)5月で終わっていますから、ここまでに彼女が妊娠していないと年内の誕生は物理的に厳しいでしょう。
(婚前の性交渉が行われた可能性がなくはないものの、もしそうだとしたら、両者の態度があまりに不自然すぎます)
まぁそこはドラマのご都合主義でうまく調整するとして、ともあれ亡き八重との子(異母兄)・金剛と仲良く過ごしたようです。
※泰時の弟想いなエピソードがコチラ
執権の立場は重々承知…それでも弟の危機に駆けつけた「北条泰時」の兄弟愛【鎌倉殿の13人】
建久9年(1198年)には弟の北条重時(しげとき)も生まれますが、朝時が11歳になった建仁3年(1203年)、母の実家である比企一族が滅ぼされてしまいました(比企能員の変)。

比企能員の最期。『星月夜顕晦録』より
とうぜん母は激怒して比企一族を滅ぼした義時と離婚。朝時たちを置いて上洛してしまいました。
上洛した母は公卿の源具親(みなもとの ともちか)と再婚し、間もなく亡くなります。朝時は遺児の一人を猶子として引き取り、元服に際して名前から一文字を与えて源輔時(すけとき)と改名させます。
話を戻して13歳となった建永元年(1206年)10月に元服、時の第3代将軍・源実朝(演:柿澤勇人)から朝の字を拝領して朝時と改名しました。
元久2年(1205年)に鎌倉から追放された祖父・北条時政(演:坂東彌十郎)の名越館を受け継ぎ、北条家の嫡男(※泰時は長男だけどあくまで庶子)としてますます奉公に励んでいた建暦2年(1212年)5月7日。その事件が起こります。
■女性スキャンダルで勘当される
朝時は将軍家にお仕えしている女官・佐渡守親康女(さどのかみ ちかやすのむすめ)に一目惚れ。さっそく艶書(えんしょ。ラブレター)を送りますが、まったく脈がありません。
「父上だって、一年以上も粘り強くストーk……もとい情熱的にアプローチして母上をゲットしたのだから、ここで諦めてなるものか!そう、誰かさんも『色恋はフラれてからが本当の勝負』とか言っていた気もするし!」
※義時が姫の前をゲットしたエピソードはコチラ:
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では誰が演じる?北条義時が熱愛した正室・姫の前
まったく血は争えず、思い立ったら即実行……ということで朝時は深夜、御所に忍び込んで佐渡守親康女を誘い出したのでした。
【問】その気がないのに、なぜ朝時の誘いに乗ったんですか?
【答1】彼の目があまりに怖くて、拒否したら何をされるか分からなかったから……
【答2】ちょっと怖かったけど、そこまで自分を愛してくれたことがわかって、満更でもなかったから……
答えがどっち(あるいは他の理由)かはともかく、朝時による夜這い事件はたちまち発覚、実朝は大激怒です。

実朝の怒りを受ける朝時と陳謝する義時(イメージ)
「うちの愚息がすみません。コイツは勘当(義絶)の上で駿河国へ追放します!」
義時は朝時を絶縁し、駿河国富士郡(現:静岡県富士市・富士宮市)で謹慎させたのでした。
……相摸次郎朝時主依女事蒙御氣色。嚴閤又義絶之間。下向駿河國富士郡。彼傾公。去年自京都下向佐渡守親康女也。爲御臺所官女。而朝時耽好色。雖通艶書。依不許容。かくして鎌倉を去り、謹慎の日々を過ごしていた朝時でしたが、いつまでも謹慎していられるほど世の中は平和ではありませんでした。去夜及深更。潜到彼局。誘出之故也云々。
※『吾妻鏡』建暦2年(1212年)5月7日条
【意訳】相模守(義時)の次男である朝時は、女がらみの不祥事で将軍家の怒りを買った。嚴閤(げんこう。偉い人、ここでは義時を指す)は朝時を勘当し、駿河国富士郡で謹慎させた。
その女とは建暦元年(1211年)に京都から下って来た佐渡守親康の娘。傾城の美女であり、御台所(実朝の正室。坊門信清の娘)に仕えている。
朝時は色恋に狂って艶書を出すも相手にされなかったため、深夜彼女の元へ夜這いをかけ、御所から連れ出したためだとか。
■和田合戦で豪傑・朝比奈義秀に挑みかかる
建暦3年(1213年)5月2日、かねて義時との対立を深めていた和田義盛(演:横田栄司)がついに挙兵。

和田合戦図。歌川豊国筆
「おい次郎。もう謹慎はいいから帰って来い!人手が足りないんだ!」
「ぃよっしゃあ!」
鎌倉へ連れ戻された朝時は、さっそく前線に投入。かの猛将・朝比奈三郎義秀(あさひな さぶろうよしひで。和田義盛の子で、一説には巴御前が母親)を相手に奮戦しました。
この義秀は素手で鰐(サメ)を捕らえたとか、一晩で山をぶち抜いた(それが現代の朝比奈切通し)とか、とかく桁外れの怪力自慢。
……酉剋。賊徒遂圍幕府四面。摩旗飛箭。相摸修理亮泰時。「門が……破れるぞ!」同次郎朝時。上総三郎義氏等防戰盡兵略。而朝夷名三郎義秀敗惣門。乱入南庭。攻撃所籠之御家人等。剩縱火於御所。郭内室屋。不殘一宇燒亡。……
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月2日条
「でりゃあ!」

歌川国芳「和田合戦 義秀惣門押破」
※建築様式が完全に近世のものですが、崩れ落ちる瓦やへし折られた閂(かんぬき)が躍動感を生むと共に、門を破られた北条勢の動揺がよく表現されています。
ガラガラガラ……御所の惣門(正門)もぶち破って和田勢は南庭へ乱入。一時は将軍の身さえも危ない状況に追い込まれたとか。
「ここで逃げたら北条の名折れ。
朝時はここが名誉挽回の好機と心得、命懸けで義秀に立ち向かいました。
……相摸次郎朝時取太刀。戰于義秀。比其勢。更雖不耻對揚。朝時主逢蒙疵也。然全其命。是兵略与筋力之所致。殆越傍輩之故也。……「面白ぇ、相手してやらぁ!」
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月2日条

奮戦する朝比奈義秀。鬼のような金棒がトレードマーク。歌川芳員筆
太刀をとって義秀に斬りかかった朝時ですが、ここで手傷を負ってしまいます。命からがら逃げ延びたのは、すぐれた兵略と筋力のゆえだとか。
「大丈夫か!」
「あぁ、これで将軍家もお赦し下さろうか……」
果たして和田一族は鎮圧され、朝時は武勇の甲斐あって御家人の列に復帰を果たしたのでした。
■エピローグ
その後、承久3年(1221年)に勃発した承久の乱では北陸道の大将軍として上洛。勝利の後は北陸諸国の守護職を務めます。
元仁元年(1224年)に父・義時が亡くなると六波羅探題として在京・不在であった泰時に代わって弟たちと共にその葬儀を執り行いました。

政村と泰時の後継者争い(イメージ)
その後、異母弟・北条政村(まさむら)との後継者争い(伊賀氏の変)を制した泰時が鎌倉幕府の第3代執権に就任すると朝時はこれを補佐。
嘉禎2年(1236年)9月に幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう。新「鎌倉殿の13人」的な合議制メンバー)に加えられますが、間もなく辞退して幕政から遠ざかります。
仁治3年(1242年)に泰時が病のため出家すると、朝時も共に出家して生西(しょうさい)と号しました。出家の理由は不明ですが、一説には泰時の死に乗じて謀叛の噂が立ったからとか。
そして寛元3年(1245年)4月6日、53歳で亡くなったのでした。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には登場するか分かりませんが、是非とも登場して欲しい北条朝時。もし出てくるならどんなアレンジがなされるのか、誰がキャスティングされるのか楽しみですね!
※参考文献:
- 石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月
- 上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館、1988年10月
- 細川重男『北条氏と鎌倉幕府』講談社、2011年3月
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