ウクライナ情勢から目が離せない昨今ですが、かつて「ホロドモール」という、人工的に飢饉状態を作り出して行われた虐殺がありました。
実は日本史上でも、似たような戦略が採られたことがあります。
今回はその内容を探ってみましょう。
織田信長に中国攻めを命じられた羽柴秀吉は、天正8(1580)年、鳥取城の攻略に着手します。
当時の鳥取城の城主は山名豊国。彼は「堅城」と名高い鳥取城に籠り、一進一退の攻防を繰り広げますが、3ヵ月ほど経ったある日、突然城を抜け出して秀吉の陣中を単身訪れ降伏してしまいます。この降伏の理由には諸説あり、本当のところははっきりしません。
山名豊国(Wikipediaより)
で、城は織田方に落ちるかと思われましたが、徹底抗戦を掲げていた重臣たちは降伏せず、逆に毛利方に有力武将を派遣するように要請するなど、徹底抗戦の構えを見せます。これにより、鳥取城の城主として吉川経家(きっかわ つねいえ)が派遣されました。
これを受けて、秀吉は天正9(1581)年3月に、2万の軍勢を率いて再び鳥取城へ侵攻します。
鳥取城に入った経家は、兵力を分散させるよりも、城に集中させて戦う方が有利とみて籠城戦を選択しました。
これが惨劇の始まりでした。
■籠城戦VS兵糧攻め!
この地域は11月になれば大雪に見舞われるため、10月まで城を守り抜いて持ちこたえれば、敵は戦いを中断して引き上げざるを得ません。

現在の鳥取城・西坂下御門
ところが、すでに城内は兵糧不足に陥りかけており、半年以上の籠城に耐えられるだけの兵糧がありませんでした。前年の凶作に加え、秀吉が侵攻した際に兵糧を徴収しさらには刈田もしていたからです。
また、秀吉は若狭の商人達に指示を出し、因幡国内の米を通常価格より高値で購入させ、鳥取城下の米を買い占めさせていました。このため、城兵達は米を売って弾薬や武器を補充するありさまでした。
秀吉は以前から鳥取城を兵糧攻めで攻略することを考えており、早く城内の食糧を枯渇させるためにあらかじめ策を講じていたのです。

豊臣(羽柴)秀吉(Wikipediaより)
さらに、秀吉は鳥取城の西北に丸山・雁金の2つの付城を築きます。三木城の合戦でも効果を発揮した、付城による包囲作戦をここでも採用したのです。
そして、本丸の東側に本陣を置き、鳥取城を囲むように70ヵ所以上の陣城を配置。蟻の這い出る隙間もないほどの包囲網を敷きます。
さらに、攻略した周辺の支城にも兵を入れて陸路や海路を完全封鎖し、外部との連絡手段と補給経路を完全に遮断しました。
経家も早い段階でこの危機に気づき、外部に食糧援助を要請しましたが、陸路・海路ともに阻まれており、兵糧を届ける手段はもはやありませんでした。
籠城戦+持久戦VS包囲戦+兵糧攻め、という構図です。
■「飢え殺し」の結末
秀吉の、徹底的な兵糧攻めはまだ終わりません。彼は鳥取城周辺の村々を襲い、2千人以上の領民を鳥取城内に逃げ込ませ、城内の食糧消費を加速させる作戦に出ました。

鳥取城の石碑。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っている
これが功を奏し、籠城戦が始まってからわずか1か月で兵糧が尽きてしまいました。その後は、3日か5日に一度、雑兵が城柵まで出てきて木や草の葉を取り、それを食糧として飢えを凌ぐようになります。
しかし、数週間後には城内の家畜や植物も枯渇し、4か月が経った頃には餓死者が続出。詳細はご想像にお任せしますが、この頃の城内は地獄絵図だったようです。
このような状況に耐えられなくなった経家は、秀吉への降伏を決意。経家自身と主戦派の旧山名氏重臣たちの切腹を条件に、兵士や民衆の助命を嘆願しました。
秀吉は経家の命は助けたかったようで、旧山名氏重臣の切腹を降伏条件として提示します。しかし経家の意思は固く、結果的には秀吉側が折れて経家と旧山名氏重臣らの自決とともに鳥取城は開城されました。

吉川経家像
こうして戦いは終わりましたが、悲劇はまだ終わっていませんでした。開城後、秀吉は空腹の兵士らに食糧を振る舞いますが、空腹のあまり勢いにまかせて食べた人々が次々と死亡し、生存者の過半数が命を落としたと言われています。
餓死寸前の人に、いきなり普通の食料を与えてはいけないのです。
ちゃんと振る舞う分の食糧を準備していたことから見ても、おそらく秀吉は「飢え殺し」そのものを目的にしていたわけではないのでしょう。城さえ落とせれば、あえて人々を飢えさせる必要はなかったはずです。
しかし経家たちが意地を見せたことで、かえって被害は拡大したのでした。彼が決死の思いで助けた人たちも、その多くが命を落とし、こうして「鳥取の飢え殺し」は、日本史上稀に見る鬼畜戦略として名を残すことになったのです。
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