「鎌倉殿の13人」で重要な役割を演じる後白河法皇・後鳥羽上皇ら院の権力者たち。

そんな彼らが頻繁に行った熊野御幸について、2回にわたりお話してきました。


なぜ熊野詣に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?そもそも熊野詣ってなに?【その1】

なぜ熊野詣に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?そもそも熊野詣ってなに?【その2】

最終回の【その3】では、なぜ上皇たちが熊野詣を行ったのか、特に回数が多い後白河法皇と後鳥羽上皇を中心にお話ししましょう。

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浄土に模された神秘的な熊野の風景(写真:熊野本宮観光協会)

■熊野御幸を行った上皇たち

世の中が動乱期に入り、不安が広がると熊野詣が盛んになります。しかし、熊野詣を有名なものにしたのが、平安時代の最高権力者である上皇による参詣「熊野御幸」でした。

「御幸」とは、上皇・法皇・女院の外出を指し、天皇の外出は「行幸」といいます。

なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】


院政を開始した白河上皇(写真:Wikipedia)

熊野御幸を行った上皇とその回数は以下のようになります。

●宇多法皇…1回
●花山法皇…1回
●白河上皇…9回
●鳥羽上皇…21回
●崇徳上皇…1回
●後白河法皇…34回
●後鳥羽上皇…28回
●後嵯峨上皇…2回
●亀山上皇…1回

初めて熊野御幸を行ったのは、宇多法皇で907(延喜7)年のことでした。それから約100年後の1090(寛治4)年に白河上皇が熊野御幸を行い、以降9回にわたり熊野に詣でます。

なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】


最初に熊野の御幸を行った宇多法皇(写真:Wikipedia)

白河法皇の後、保元の乱で敗れ配流先の讃岐で憤死した崇徳上皇を除けば、鳥羽上皇21回・後白河法皇34回・後鳥羽上皇28回と、ずば抜けて多い熊野御幸を行っています。

白河・鳥羽・後白河・後鳥羽はみな院政を敷いた上皇として知られています。なにやら熊野御幸が、院政と深い関係にあることに気づかされるでしょう。

■なぜ上皇たちは熊野御幸を行ったのか

院政を開始した白河・鳥羽上皇が火付け役 院政は、簡単に述べると天皇が皇位を後継者に譲り、上皇となって政務を天皇に代わり直接執ることです。上皇(出家して法皇)のことを「院」と呼んだため、院政と称されます。


様々な説がありますが、院政は膨らみすぎて形骸化した、藤原北家による独占的な摂関政治からの脱却にあったことは間違いないでしょう。

摂政は、女性もしくは幼少の天皇を扶ける役職、関白は成人した天皇の代わりに政務を行う役職です。ここには、天皇の父である上皇は含まれません。

なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】


院政の最盛期を築いた鳥羽上皇(写真:Wikipedia)

事実、院政が開始されると、それまで摂関家に集中していた荘園は、上皇のもとに集まるようになります。また、新しい時代の担い手である武士たちも上皇に仕えるようになり、北面の武士が形成されます。それに従い、摂関政治は急速に衰えていきました。

なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】


摂関政治の最盛期を築いた藤原道長(写真:Wikipedia)

上皇は、権力・財力・武力をあわせ持った権力者としての地位を確立したのです。しかし、その権力は、白河・鳥羽の両上皇までは絶対的であったものの、それ以降の後白河・後鳥羽の両上皇の時期になると万全なものではなくなってきます。

天皇なくては存在意義がなかった摂関政治に代わり、武力を背景にした武士たちの影がちらつき始めるのです。

しかしながら、院政の最盛期であった鳥羽上皇は、父の白河上皇がブームに火をつけた熊野御幸をさらに盛んなものにしました。

権力と富を手に入れた2人の上皇にとっては、熊野詣は「来世の安泰」を祈願する真摯な信仰心からであったと思われます。

権謀術策の末、極楽往生を願った後白河法皇 在位35年間の中で34回と最多の熊野御幸を行ったのが後白河法皇です。
法皇は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたり院政を行いました。

なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】


権謀術策をめぐらし多くの武士たちを滅ぼした後白河法皇(写真:Wikipedia)

その生涯は、台頭著しい平氏・源氏の武家勢力に対し、権謀術策を用いて武士同士の争いを起こさせることに専念したといっても過言ではないでしょう。

その結果、木曽義仲・平氏一族・源義経・奥州藤原氏など多くの武士たちが滅んでいきました。

後白河法皇に罪の意識があったかどうかは分かりません。しかし、自らが操ることにより滅亡へと追い込んだ者たちへの怖れは、絶えず法皇の中にあったと思われます。

「浄土」があるとされる神聖な熊野を数多く詣でることで、「来世の安泰」すなわち「極楽浄土」を願ったと考えても不思議はないでしょう。

僧兵勢力掌握のため熊野御幸を行った後鳥羽上皇 後白河法皇に次いで、28回と多くの熊野御幸を行ったのが孫の後鳥羽上皇です。上皇の在位は24年間。およそ1ヵ月を費やすといわれる熊野御幸を10ヵ月に1回という驚異的なペースで行ったことになります。

なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】


承久の乱で鎌倉幕府と戦った後鳥羽上皇(写真:Wikipedia)

武士勢力と激しく対立した後白河法皇ですが、結局は武家政権を樹立した源頼朝に屈服した形になりました。

そんな祖父を見ていた後鳥羽上皇は、自らも弓馬の道に精進し、直属の武士団・西面(さいめん)の武士を組織するなど、院の勢力挽回に意欲を示した皇族でした。

そして、1221(承久元)年、後鳥羽上皇は北条義時追討のために挙兵し、承久の乱を起こします。
その3ヵ月前に上皇は最後の熊野御幸を行っているのです。

熊野は、宗教的な聖地でありながら、多くの僧兵を抱えていた武力勢力でもありました。承久の乱では、熊野の僧兵たちが上皇方として戦い、熊野権別当小松快実父子が討ち死にしています。

なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】


興福寺の僧兵(写真:Wikipedia)

後鳥羽上皇の常軌を逸したともいえる熊野御幸。もちろん上皇の信仰心に基づいての行動であったのでしょうが、その裏では、熊野の軍事力の掌握という面も否定できないのではないでしょうか。

3回にわたり、お読みいただきありがとうございました。

なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】


今も古の情景を伝える熊野古道(写真:熊野本宮観光協会)

コロナの影響で、熊野三山をめぐる熊野古道も、参詣者・観光客の大幅減という大打撃を受けています。感染の拡大・減少を繰り返す新型コロナウイルス。そんな状況ですが、熊野古道は多くが山の中です。ぜひ、熊野三山を訪れてみてください。

◎参考文献
『世界遺産 熊野古道 ~とっておきの聖地巡礼 歩いて楽しむ南紀の旅~』 メイツユニバーサルコンテンツ刊・伊勢・熊野巡礼部著(編集・執筆:高野晃彰)]

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