酉尅。伊豆國飛脚參着。鎌倉幕府の第2代将軍・源頼家(演:金子大地)の最期について、『吾妻鏡』は実に淡々と記しています。昨日〔十八日〕左金吾禪閤〔年廿三〕於當國修禪寺薨給之由申之云々。
※『吾妻鏡』元久元年(1204年)7月19日条
【意訳】午後6:00ごろ、伊豆国から飛脚が到着。曰く「昨日7月18日、修善寺に滞在していた源頼家入道が亡くなった」とのこと。
偉大なる父を越えようと苦闘した二代目将軍・源頼家肖像。建仁寺蔵
しかしその死は決して安らかなものではなく、暗殺であったとの記述が『愚管抄』に綴られていました。果たして頼家は、どのような最期を遂げたのでしょうか。
■頸ニヲヲツケ。フグリヲ取ナドシテ……
……元久元年七月十八日ニ。修禅寺ニテ又頼家入道ヲバ指コロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ。頸ニヲヲツケ。頼家が出家したのは前年(建仁3・1203年)9月7日。後ろ盾であった比企能員(演:佐藤二朗)ら一族が9月2日に滅ぼされ(比企の乱)、孤立無援となってしまった我が子を、命だけでも救おうと願う尼御台・政子(演:小池栄子)の計らいによるものでした。フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ。トカク云バカリナキ事ドモナリ。イカデカイカデカソノムクイナカラン。人ハイミジクタケキモ力及バヌコト也ケリ。
※『愚管抄』第六
【意訳】元久元年(1204年)7月18日に、修善寺で頼家入道を刺し殺した。頼家が激しく抵抗するので、首に緒(縄)をかけて絞め、ふぐり(男性器の睾丸部分)をひっつかむなどして何とか仕留められたとのこと。
まったく言葉に尽くせない事件であったが、どうしてどうして(暗殺者たちに)その報いがないことがあるだろうか。人間はどれほど猛々しくとも(天のお裁きに対しては)力が及ばないのだから。

頼家の無事を願った北条政子。しかし北条一族は……菊池容斎『前賢故実』より
霽。このままでは身体的にも政治的にも命が危ない……政治抗争の中心であった鎌倉から遠ざけるため、9月29日には伊豆修善寺へ下向させます。亥尅。將軍家令落餝給。御病惱之上。治家門給事。始終尤危之故。尼御臺所依被計仰。不意如此。
※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)9月7日条
【意訳】晴れ。午後22:00ごろに頼家は出家した。病気が重く将軍職に堪えられないどころか、命さえも危ない状況であったためである。政子の配慮を受け入れ、不本意ながらこういうことになった。
実質的な幽閉ですが、ここまですればもう大丈夫か……と思った矢先の事件。誰が殺したかまでは明記されていないものの、頼家の復帰を願わぬ北条一族による犯行とみて間違いないでしょう。
■どうしてこんなことに……
それにしても、どうして頼家はこんなことになってしまったのでしょうか。
『愚管抄』では、その原因は梶原景時(演:中村獅童)を失ったことにあると指摘しています。
……鎌倉ノ本躰ノ武士カヂハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガフカクニ人思ヒタリケルニ。ハタシテ今日カカル事出キニケリ。亡き父・源頼朝(演:大泉洋)の代から愚直に忠義を尽くしてきた梶原景時。時として汚れ役もいとわず、鎌倉殿を批判から守るためひたすら矢面に立ち続けてきた彼を、頼家はあっさり見捨ててしまったのです。
※『愚管抄』第六
【意訳】鎌倉武士の鑑とも言える梶原一族をことごとく喪ったのは頼家の不覚と人々が思っていたところ、果たしてこんな結果になったのであった。

「鎌倉ノ本体ノ武士」と賞された梶原景時。その本質を理解し、使いこなせるのは頼朝だけだったのかも知れない。
楊洲周延筆
かくして懐刀(景時)と後ろ盾(能員)を失った頼家は、なすすべもなく非業の末路を辿ったのでした。
ちなみに、頼家が暗殺された7月18日を新暦に直すと8月14日。令和4年(2022年)だとちょうど日曜日に当たり、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第31回が放送される予定です。
7月17日(日)第27回放送「鎌倉殿と十三人」
7月24日(日)第28回放送予定
7月31日(日)第29回放送予定
8月7日(日)第30回放送予定
8月14日(日)第31回放送予定
SNSなどではこの8月14日放送を頼家の「Ⅹデー」と予想する声もあるようですが、果たしてどうなるのでしょうか。
頼家・景時・能員それぞれの最期を脚本の三谷幸喜がどう描き上げるのか、史実との違いやアレンジに注目が集まっています。
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
- 丸山二郎 校訂『愚管抄』岩波文庫、1949年11月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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