前編の記事はこちら
日本書紀上NO.1の暴君!武烈天皇の本当だったらヤバすぎるエピソード【前編】
■武烈天皇とは?
武烈天皇は、日本書紀と古事記に名前の残る日本の第25代天皇です。仁賢天皇の崩御後、武烈天皇はわずか10歳で即位したと伝わっています。在位は5世紀末から6世紀の初めと言われ、はっきりは分かっていません。
不明点が多いため、記されたエピソードが事実なのかのみならず、実在したかどうかについても議論が残っています。
■外国からの客も標的に!?
後編からはついに横暴ぶりが外国に対しても発揮されるようになります。
「六年の冬十月に、百済国、麻那君を遣わして調を進る。天皇、百済の年を歴りて貢職を不脩為を以ちて、留めて放たず」。 訳は「百済国は麻那君(まなきし)を遣わして貢物をした。天皇は百済が長い間貢物をしてなかったと責め、抑留した」。
つまり当時国際交流のあった百済の国の人に対しても横暴を働いたというのです。これは本当なら大問題!
「七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ」。
人を木に登らせて、弓で射落として笑ったという意味です。前編にもありましたがまた木に登らせていますね!笑った、というところがぞっとするポイントです。
■女性への異常行動
「八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ」。
内容は「女を裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出して、面前で交尾を見させた。女たちの性器を調べ、潤っているもの(すなわち愛液が分泌されている者)は殺し、潤っていない者は、奴隷として召し上げた。これが楽しみであった」
という事です。これが楽しみであったという事は一度ならず何度もそうした行為を行っていた可能性があります。

■変わらぬまま亡くなる
また、そのころ、
「池を掘り庭園を作って、鳥獣をたくさん飼った。そして、狩りを好んで、犬を走らせ馬と競争させた。出廷や退廷の時間もまちまちで、大風が吹こうと激しい雨が降ろうとお構いなしだった。贅沢にあけくれ、百姓が寒さに凍えることを意に介さず、美食をして天下の飢えを顧みなかった。
という記述が残っています。
しかしその武烈天皇八年、まだ十八才であったにも関わらず、突如として武烈天皇は亡くなります。日本書紀上最も残虐な天皇に、いったい何があったのでしょうか。そもそもどこまでが真実なのでしょうか……。
疑問は深まるばかりです。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan