そもそも吉原といっても明暦の大火(1657年)以前と以後では場所が全く違うというのをご存知でしょうか。今回は明暦の大火以前の元吉原ができるまでを追いましょう。
■ニーズに応えて遊女屋開業!
徳川家康が天正18年8月1日(1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸は俄かに活気付き、沢山の関東の武士が住む大都会となりました。
家康は東海地方から多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸は男だらけに。また、江戸のインフラ整備を急ピッチで進めるために関東中からたくさんの人足を集めたため、さらに男だらけになります。
また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、またまた男だらけに……。
むさくるしくなってしまった江戸に女性がほしい!!
というわけで、彼らの要望にお応えするかたちで江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになったのです。
■元吉原ができたのは豊臣のおかげ!?
江戸幕府は江戸城の大普請を進めつつ、武家屋敷の整備など江戸の町づくりをどんどん進めていきました。そのために、遊女屋は移転を強制されることが多くありました。
せっかく開業してもいちいち移転してはお金がかかってしょうがない……。
そこで遊女屋は、分散しているたくさんの遊女屋を1つの大きな区画にかためてこれ以上移転しなくてもいいようにと「遊廓」の設置を幕府に訴えました。
当初、幕府は相手にもしませんでしたが、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなくなり、何度も訴えているうちに結局OKしたのです。
こうしてみると吉原ができたのは豊臣のおかげとも言えそうです。
■最初の遊女はとっても地味だった!?

元和3年(1617年)、幕府は「遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすること」などを条件に、江戸初の遊廓「葭原(よしわら)」の設置をOKを出しました。
ファッションなどが華美にならないことを条件にしていたということは、江戸吉原遊女の「派手じゃないけれど見えないところにこっそりおしゃれを仕込む粋なファッション」の原点はここにあったのかもしれませんね。
■場所が今の吉原とは全然違った!?
ちなみに元吉原のあった場所は今の吉原の区画とは全く違います。このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、日本橋葺屋町続きの2丁(約220メートル)四方の区画で、海岸に近く、水草のヨシが茂り放題に茂り、当時の江戸全体からすれば僻地でした。
ここは現在の日本橋人形町2、3丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりで、日本橋と言えば今では東京の中心地とも言えますが、この頃はまだ開発が不十分だったので僻地と言えたのですね。
ちなみに「吉原」の名は水草のヨシが茂りまくっていたことから来ています。そんな僻地にあっても男性客からのニーズは衰え知らず、どんどん発展していく元吉原に風紀上の危機感を覚えた幕府は、寛永17年(1640年)遊廓に対して夜間の営業を禁止したほどなのでした。
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