母である山内尼(やまのうちのあま。
■母のコネで出世するが……
頼朝に仕えてからと言うもの、いくつかの合戦に出たり怒られたり(※)、まぁそれなりに活躍していた経俊。乳母のコネもあって伊賀・伊勢両国(現:三重県)の守護となります。
(※)平家討伐の功績として源義経(演:菅田将暉)らと一緒に頼朝の許可なく官職を受けてしまい「肩書ばっかり欲しがって、見合った仕事もしないくせに!猫に小判だ!(官好み、その要用なき事か。あはれ無益の事かな)」と書面で罵声を浴びせられました。
しかし頼朝の死後、元久元年(1204年)になって国元で平家の残党が謀反を起こし、経俊は逃げ出してしまいます。
敵前逃亡する経俊(イメージ)
晴。武藏守朝雅飛脚到着。申云。去月日。雅樂助平惟基子孫等起伊賀國。中宮長同度光子息等起伊勢國。「やれやれ、仕方ないな」各叛逆云々。彼兩國守護人山内首藤刑部丞經俊相尋子細之處。無左右企合戰。經俊依無勢逃亡之間。凶徒等虜領二ケ國。固鈴鹿關。八峯山等道路。仍無上洛之人云々。
※『吾妻鏡』元久元年(1204年)3月9日条
【意訳】京都守護の平賀朝雅(演:山中崇)より使者が到着。報告によると平惟基(たいらの これもと。雅楽助)の子孫が伊賀国で、平度光(のりみつ。中宮長)の子たちが伊勢国でそれぞれ蜂起しました。恐らく共謀連携してのことでしょう。
経俊が事情聴取と説得を兼ねて出向いたところ、返り討ちに遇って敵前逃亡。賊徒は追い立てる勢いで両国を奪い(虜領し)、鈴鹿関や八峯山などの街道を封鎖。東海道をふさがれた人々は、上洛ができなくなってしまいました。
そこで鎌倉幕府は平賀朝雅に命じて賊徒を討伐させ(4月10日から12日の3日間で鎮圧したので「三日平氏の乱」と呼ばれます)、その武功によって伊勢と伊賀の守護職は経俊から朝雅へと与えられたのでした。
■「敵前逃亡は作戦だったのです」経俊の苦しすぎる言い訳
こうしてせっかくの守護職を失ってしまった経俊ですが、やがてチャンスが訪れます。元久2年(1205年)閏7月26日に朝雅が謀反の疑い(牧氏の変)で粛清されたのです。
晴。首藤刑部丞經俊捧款状。是去春比伊勢平氏蜂起之時。依無勢。爲聚軍士。千載一遇のチャンスを逃すまいと、経俊は嘆願書を持参して訴えました。暫遁其國之處。差遣朝雅。被誅平氏之間。以經俊所帶伊賀伊勢守護職。被宛朝雅之賞。而於時進退。兵之故實也。強難被處不可歟。就中對治朝雅之謀叛事。諸人雖有勳功之号。正加誅罸。獨在愚息持壽丸之兵略也。件兩國守護職。適日來朝雅之所帶也。且經俊本職也。任理運。依忠節。可返給之趣載之云々。但無御許容歟。随而此所。先之被補帶刀長惟信者也。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)9月20日条

平賀朝雅を射止めた持寿丸(イメージ)
曰く「去年の春に伊勢国で平家の残党が蜂起した際、それがしが敵前逃亡したと思われているかも知れません。しかしあれは兵を集めるための作戦でした。
この複雑?な言い分をひもといてみると、要するに「あの時は敵を恐れて逃げ出したのではなく、あくまでも戦略的撤退である。朝雅はいわば手柄と伊勢・伊賀の両国を横取りしたようなものであり、彼の謀叛を我が子が仕留めたのだから、その手柄をもって両国を返還すべし」と言いたいのでしょう。
「お前は何を言っているんだ」
幕府当局もそう思ったらしく、但無御許容歟(ただしごきょようのなきか≒そうは問屋が卸さない)とバッサリです。
結局、伊勢と伊賀の守護職は朝雅の兄である大内帯刀長惟信(おおうち たてわきのおさこれのぶ)が受け継いだのでした。
■終わりに
とまぁそんな具合でしたが、憎まれっ子何とやらで、経俊は命を永らえました。嘉禄元年(1225年)6月21日に亡くなった時、彼は89歳だったと言います(『山内須藤氏系図』による)。

「よし、これで行ける!……かも?」嘆願書の文章を考える経俊(イメージ)
思わぬ不覚によって伊勢と伊賀の両国を失い、朝雅の死に乗じて言い訳を上塗りしてしまった経俊。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に再登場の可能性は低いでしょうが、北条義時(演:小栗旬。元仁元年・1224年6月13日没)よりも長生きすると思うと、画面を見るたび「今ごろ経俊は何をしているかな」と思いを馳せる楽しみ方もできるかも知れません。
※参考文献:
- 関幸彦ら編『源平合戦事典』吉川弘文館、2006年11月
- 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』NHK出版、2000年12月
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