■「独眼竜」の理由は?

「独眼竜」として知られる伊達政宗(だてまさむね)ですが、彼が片目を失った原因はなんだったのでしょうか。

伊達政宗が「独眼竜」になった原因の病とは?そして隻眼でない肖...の画像はこちら >>


伊達政宗の、数少ない隻眼で描かれた肖像画(Wikipediaより)

それが少なくとも外傷によるものではなかったことを示す証左として、政宗の遺骨があります。


1636年に政宗が逝去すると、翌年、仙台に瑞鳳殿と呼ばれる霊廟が建てられました。これが1945年、戦火に焼かれ焼失します。

これが戦後に再建されることになり、1974年、事前に墓室の発掘調査が行われました。そこで政宗の頭蓋骨が調べられ、右目の眼窩には損傷がないことが確認されています。

このことからも、彼の失明は落馬や刀による切り付けなどの外傷が原因ではなかったことが分かります。

■天然痘による失明

では原因は何だったのかというと、最も信憑性が高いのが「天然痘」です。

仙台藩の正史である『伊達治家記録』によると、政宗が天然痘に罹患したのは5歳頃。目に膿疱ができ、右の眼窩が盛り上がって、まるで目が飛び出ているような外見になってしまったと言われています。

伊達政宗が「独眼竜」になった原因の病とは?そして隻眼でない肖像画が多く残っている理由


伊達政宗騎馬像(仙台市・仙台城本丸)

かつて、日本だけでなく世界各地で猛威を奮っていた天然痘は、感染率も致死率も高いやっかいな感染症でした。1796年にワクチンが発見され現在は根絶に至っていますが、政宗が罹患したと思われる1570年頃には特効薬もありませんでした。

天然痘にかかると高熱や頭痛、吐き気などの症状が出ます。

中でも特徴的なのが膿疱です。
膿が溜まったできものが全身にできてしまい、その膿疱ができた箇所から菌がまわったり、たとえ治癒しても跡が残ってしまうことが多かったようです。

政宗も命は助かったものの、この膿疱が目にできたことで失明しました。彼はもともと内気な性格でしたが、このことでますます内向的になったといいます。

しかしそんな政宗を、父の伊達輝宗は当主として熱心に教育します。その甲斐あって、成長した政宗は18歳という若さで家督を継ぐと数々の手柄を上げ、伊達家や奥州を大きく発展させました。

しかし片目の失明は長い間コンプレックスだったようで、自画像では両目を描くように指示していました。現代に残る政宗の自画像に両目が描かれているものが多いのは、こういった理由があったのです。

伊達政宗が「独眼竜」になった原因の病とは?そして隻眼でない肖像画が多く残っている理由


伊達政宗肖像(狩野安信作、仙台市博物館所蔵品)。政宗の遺言に従って両目を開いた状態で描かれている(Wikipediaより)

また、かつて政宗は飛び出た右目を自ら小刀で切り落とそうとしたことがあるそうです。傅役(教育係)の片倉小十郎景綱がその政宗の強い覚悟を汲み、代わりに切ってあげたという逸話が残っています。

参考資料

  • 仙台藩祖伊達政宗公霊屋 瑞鳳殿
  • BEST TiMES

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ