■奥州藤原氏の最後の当主

藤原泰衡は鎌倉時代に活躍した武将で、奥州藤原氏の四代目、最後の当主にあたりますが、奥州藤原氏を滅亡に導いた人物として有名です。

よって、あまり評価は高くありませんが、実際に最期を迎えるまでの経緯はどのような流れだったのでしょうか。


泰衡の父は奥州藤原氏の最盛期を築いた三代目、藤原秀衡でした。泰衡は父の秀衡と正室の間に生まれた初めての子で、兄弟には母親違いの兄である藤原国衡がいます。家督は弟である泰衡が継ぐことになりました。

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藤原秀衡(Wikipediaより)

父・秀衡は今後起こりうる兄弟の衝突を防ぐために、国衡に自らの正室を娶らせ、国衡と泰衡の兄弟を形式上の親子にしました。今の時代から見るとすごい話です。

また、秀衡は死の直前にとある遺言を残します。それは、当時平泉に匿われていた源義経を主君として、兄弟で力を合わせて源頼朝の攻撃に備えよというものでした。

しかしこの願いは叶わず、秀衡の死後たった2年で奥州藤原氏は滅亡するのです。

■義経を討ち、自らも裏切られ…

秀衡の死後、頼朝は泰衡に対してなんとしても義経を探し出すよう要請します。

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源頼朝(Wikipediaより)

泰衡は当初その要請に応えませんでした。しかし頼朝はしつこく圧力をかけ、ついに奥州や泰衡自身を攻撃しようとします。

観念した泰衡は、義経が潜んでいた衣川館を襲撃。
義経の首を鎌倉へ送ると和平を望みました。しかし頼朝は、泰衡が自分を騙して義経を匿っていたことに怒り、泰衡の討伐命令を出します。

これに対し、泰衡は鎌倉軍を迎え撃つことを決めます。

まず、兄の国衡を総大将として陸奥国の阿津賀志山で合戦が起こりました。兵力は鎌倉軍が約2万5000対、藤原軍が約2万というものでした。

多勢の鎌倉軍に対して藤原軍は「阿津賀志防塁」と呼ばれる防塁を築きます。それは二重の空堀と三重の土塁で出来ており、長さは4キロメートルにも及ぶ大きなものでした。

が、この戦いは鎌倉軍の勝利で3日ほどで終結。国衡は脱出を試みるも、鎌倉軍の和田義盛に討たれます。

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『前賢故実』の和田義盛(Wikipediaより)

泰衡も退避を決め、郎党であった河田次郎を頼って北方へ逃げます。しかしこの次郎に裏切られて殺されました。享年35歳。


■灰燼に帰した財産

泰衡の首は頼朝のもとに届けられましたが、長年仕えた主君を裏切ったかどで、河田次郎も斬首されます。この人も裏切り損ですね。

しばらくして泰衡の首は平泉に戻され、父が眠る中尊寺金色堂に納められます。

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中尊寺金色堂

こうして四代にわたって続いた藤原氏の栄華は潰えました。

ちなみに合戦で退避する際、泰衡は自ら平泉に火を放ったといいます。彼の豪華な邸宅や宝物庫は焼き尽くされ、跡形もなくなってしまいました。

頼朝が先代の秀衡のころからたびたび因縁をつけていたのは、藤原氏の巨大な富が目当てだったとも言われています。よって、財産を灰にしてしまうのは、頼朝に対する最も効果的な嫌がらせだったのかも知れません。

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