有名な「和同開珎(わどうかいちん)」は日本で最初の通貨と言われていますが、実はその前にも使われたと思われる「富本銭(ふほんせん)」というものもあります。この内容を少し整理してみましょう。
富本銭は、日本の最古の通貨と言われる和同開珎よりも前に存在した銭貨です。奈良県や長野県、群馬県などの遺跡から発見されました。
富本銭:大福遺跡(奈良県桜井市)出土銭(Wikipediaより)
特に、奈良県の飛鳥池遺跡からは鋳型などが出土しており、富本銭の鋳造場所と考えられています。
富本銭は唐の銅銭である「開元通宝」を手本にして作られたと考えられ、形状もよく似ています。
その形状は円形で、中央に四角い穴、上下に分かれた「富本」の文字があり、左右にはそれぞれ7つの星が描かれています。この星は陰陽五行思想の陰と陽、そして七曜を表現したもので、中国の伝統的な思想を反映したデザインであるようです。
また円形と四角い穴は天地万物の調和が取れた状態を示していて、このようなデザインは後の貨幣である和同開珎にも受け継がれています。
そして富本銭の名称は「国を富ませる本が貨幣である」という中国の古典の内容に由来しているようです。
■うまく流通しなかった皇朝十二銭
ちなみに、日本で最初の通貨と言われている和同開珎の発行は、708年に武蔵国秩父郡で銅が産出されたことがきっかけです。これは当時としては大事件だったらしく、時の天皇は天皇はわざわざ「和同」と改元した上で和同開珎を発行しました。

秩父市の和同遺跡
実はこの時、和同開珎も、やはり唐の開元通宝を参考にして作られたと考えられています。それくらい、唐の貨幣経済というのは理想的なモデルだったのでしょう。
ちなみに開元通宝がどれくらい完成度が高かったかというと、唐がなくなり王朝が交代してからもその後300年間使われていたほどです。両・銭・分・厘という10分法の貨幣の単位もこの開元通宝が大本です。
なぜ開元通宝がそこまでうまく機能したのかは別の話となりますが、残念ながら、和同開珎の発行から始まる日本の貨幣経済は、なかなか上手くいきませんでした。
和同開珎の発行から約250年ものあいだ、日本ではさまざまな銭貨が作られています。その種類は12にのぼるとされ、これを皇朝十二銭と呼びます。
現代日本でも500円、100円、50円、10円に1円などの種類が作られているので、たくさん銭貨が作られたのは理に適っていると感じられるかも知れません。
しかし古代の日本で多くの銭貨が作られたのは、和同開珎の材料である銅や錫が不足したためでもありました。材料がないと今まで通りのものは作れないので、より質の悪いものを作るしかなかったのです。
また、民間で鋳造された私鋳銭という銭貨も問題でした。これは今で言う贋金に当たる非公式の銭貨ですが、当時はごく普通に流通しており、政府は思うように経済をコントロールできなかったのです。
■富本銭は日本最古の貨幣?
そして、何種類もの銭貨が作られるたびに品質は低下していき、銭の大きさも小さくなっていきました。こうして通貨としての価値は下がり、人々の信頼も失うことになります。

高森町武陵地古墳群から出土した富本銭(Wikipediaより)
乾元大宝の発行を最後に、公的な通貨の発行は中止されました。日本で再び通貨が発行されるのはそれから600年以上もあと、江戸時代になります。
このように、今のような貨幣経済が当たり前の時代から見るとちょっと想像がつかないくらい、通貨を安定的に流通させるというのは難しいことでした。よって、和同開珎より古い富本銭も、やはり何らかの理由で使われなくなってしまったのでしょう。
和同開珎ではなく、富本銭を日本最古の通貨だとする見方もあります(ちなみに、富本銭よりもさらに古いものに「無文銀銭」というものもあります)。
しかし、和同開珎よりも前の貨幣は全体的な出土数が少なく、通貨としてどれほどの価値があったのか、またどれほどの範囲に流通していたのかなどは不明です。
今後研究が進んでいけば、通説も変わっていくかも知れませんね。
まだしばらくの間は、「我が国初めての通貨」と確実に言えるのは和同開珎のようです。
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