……凡弓箭之戰。刀劔之諍。
雖移尅。無其勝負之處。及申斜。愛甲三郎季隆之所發箭中重忠〔年四十二〕之身。季隆即取彼首。献相州之陣……

※『吾妻鏡』元久2年(1205年)6月22日条

【意訳】弓矢で戦い、刀剣で戦い、長い時が過ぎても勝負はつかなかった。しかし申の斜(申の刻=午後4:00の前後2時間の斜=終盤≒17:00~17:30ごろか)に及んで愛甲三郎季隆の射放った矢が畠山重忠(演:中川大志。当時42歳)に命中。即刻その首級を上げて追討軍の大将・北条義時(演:小栗旬)に献上した。

……坂東武者の鑑と謳われる畠山重忠を討ち取った愛甲三郎季隆(あいこう さぶろうすえたか)。

「鎌倉殿の13人」畠山重忠・重保父子に迫る最期の刻。第35回放送「苦い盃」予習【前編】

かねて弓の名手として知られた彼は、果たして何者だったのでしょうか。


坂東武者の鑑・畠山重忠(中川大志)を射止めた愛甲季隆とは何者...の画像はこちら >>


『英雄百首』より、愛甲三郎季隆

今回は愛甲季隆のエピソードを紹介します。

■下河辺行平と弓射の腕前を競う

愛甲季隆は武蔵七党の一つ・横山党に属する山口季兼(やまぐち すえかね)の子として誕生しました。

通称は三郎、兄に愛甲小太郎義久(こたろうよしひさ)。相模国愛甲郡愛甲荘(現:神奈川県)を治めたことから愛甲と称すようになります。

源頼朝(演:大泉洋)に仕えた正確な時期は不明ながら、『吾妻鏡』では挙兵から間もない治承4年(1180年)12月20日に初登場。

於新造御亭。三浦介義澄献垸飯。其後有御弓始。此事兼雖無其沙汰。公長兩息爲殊達者之由。被聞食之間。令試件藝給。
以酒宴次。於當座被仰云々。
射手
一番 下河邊庄司行平 愛甲三郎季隆
二番 橘太公忠 橘次公成
三番 和田太郎義盛 工藤小二郎行光
今日御行始之儀。入御藤九郎盛長甘繩之家。盛長奉御馬一疋。佐々木三郎盛綱引之云々。

※『吾妻鏡』治承4年(1180年)12月20日条

この日は鎌倉に御所が出来たお祝いとして、三浦義澄(演:佐藤B作)がホストとなって椀飯を振舞いました。

宴会の余興として、御家人らの中から選抜された弓の名手として愛甲季隆が第1試合に出場。下河辺行平(しもこうべ ゆきひら)と腕前を競います。

坂東武者の鑑・畠山重忠(中川大志)を射止めた愛甲季隆とは何者だったのか【鎌倉殿の13人】


弓射の腕を競う季隆(イメージ)

……結果は下河辺行平の勝利(一般的に先に名前が書かれている方が勝者)。悔しいデビュー戦?となりましたが、その後も大いに活躍します。次はこんなエピソード。


武衛令出腰越邊江嶋給。足利冠者。北條殿。新田冠者。畠山次郎。下河邊庄司。同四郎。結城七郎。上総權介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。
佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文學上人。爲祈武衛御願。奉勸請大辨才天於此嶋。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事爲調伏鎭守府將軍藤原秀衡也云々。
今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗澤邊。有牛追物。下河邊庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。

※『吾妻鏡』養和2年(1182年)4月5日条

頼朝が腰越や江ノ島へ出かけられた帰り道、七里ヶ浜(金洗沢)で牛追物(うしおうもの。犬追物の牛バージョン)が行われ、下河辺行平・和田義盛(演:横田栄司)・小山田重成(演:村上誠基。
稲毛重成)らと共に成績優秀の褒美(染めた革や絹など)を賜りました。

名前が連ねられた順番から、どうも下河辺行平には一歩譲ってしまうようですが、まだまだこれから。もう一つ行きましょう。

武衛令出由井浦給。壯士等各施弓馬之藝。先有牛追物等。下河邊庄司〔爲御合手〕。榛谷四郎。和田太郎。同次郎。三浦十郎。愛甲三郎。爲射手。次以股解沓。差長八尺串。召愛甲三郎令射給。五度射之。皆莫不中。而武衛令打彼馬跡与的下給之處。其中間爲八杖也。仍積此杖數。可定相廣之馬場之由被仰出。其後有盃酌之儀。興宴移尅。及晩。加藤次景廉於座席絶入。諸人騒集。佐々木三郎盛綱持來大幕。纏景廉懷持退去。則歸宿所加療養。依此事。止御酒宴令歸給云々。

※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)6月7日条

また牛追物ですが、今回はその後に趣向を変えて股解沓(ももぬきぐつ。乗馬用の深めブーツ)を八尺(約2.4メートル)の杭に引っ掛け、これを季隆に射させたところ全射的中(5回すべて外れなし)。腕の確かさを改めて見せつけたのでした。

(そもそも、ここに名前が連ねられる時点で相応に実力が認められているはずです)

■富士の巻狩で、頼家の初獲物をナイスアシスト

さて、そんな具合に弓の名手として評判を高めた愛甲季隆にとって、大きな見せ場の一つとなったのが富士の巻狩り。

頼朝が自慢の嫡男・万寿(演:金子大地。源頼家)をお披露目する一大イベントで、万寿が初めて鹿を射止めたナイスアシスト賞に輝くのです。

(大河ドラマでは、万寿が一矢も当たらず「いつか自分の手で仕留めてみせる」と悔しい展開でしたが、実際にはちゃんと自力で鹿を射止めました)

富士野御狩之間。將軍家督若君始令射鹿給。愛甲三郎季隆本自存物達故實之上。折節候近々。殊勝追合之間。忽有此飲羽云々。尤可及優賞之由。將軍家以大友左近將監能直。内々被感仰季隆云々……

※『吾妻鏡』建久4年(1193年)5月16日条

「若君、ようございますか。狩りでも戦さでも、獲物を射止めるのは物逢(ものあい)……何と言いましょうか、自分と相手の呼吸や間合いのタイミングが何より大事にございますれば……」

坂東武者の鑑・畠山重忠(中川大志)を射止めた愛甲季隆とは何者だったのか【鎌倉殿の13人】


富士の巻狩り(イメージ)

故実に長けた季隆は万寿に段取りを教え、巧みに鹿を追い込むことで見事な成果を上げることが出来たのです。矢は深々と飲羽(いんう。矢羽根まで獲物の体内に刺さるほどしっかり刺さった)の勢い、これでこそ武門の男児よと頼朝も大喜び。

「でかした三郎。やはりそなたは天下に無双(ならびな)き弓の達者……あのな。こんな事を言うのは、そなただけじゃからな?」

とまぁいつもの調子でこっそり伝え、頼家の初獲物を山の神様に奉げる矢口の祭りでも矢口餅の二口(山の神様に餅を奉げる二番手≒本日のMVP第2位)を務めます(一番手は工藤景光でした)。

せっかくなので矢口餅の作法も。まず蹲踞の状態から三色の餅(それぞれ長さ八寸≒24cm×幅三寸≒9cm×厚さ一寸≒3cm)を一枚ずつとって左から赤・白・黒と並べ置き、これを下から白・赤・黒と取り重ねてから左側の倒木(他のもので代用可)に置いて山の神様へ供えます。

続いてこれら三枚の餅をまとめて三寸の方から中央・左角・右角と一口ずつかじってから、矢叫びの声を上げました。これは戦さで矢を射た手応え(敵に命中など)があった時、箙(えびら。腰に装着する矢ケース)を叩きながら叫ぶのです。

こうして儀式が終わると頼朝から鞍付きの駿馬とお下がりの直垂(ひたたれ。武士の平伏)を与えられ、そのお礼として駿馬や弓矢・行縢(むかばき。狩猟用の下半身保護具)・乗馬沓など狩猟セットを万寿に献上しました。

「え、お下がり?新品をあげればいいのに……」と思うかも知れませんが、かつて頼朝のお下がりをめぐって岡崎義実(演:たかお鷹)と上総介広常(演:佐藤浩市)が殺し合い寸前の大喧嘩を繰り広げたこと(残念ながら大河ドラマでは割愛)を思えば、季隆にとってこの上ない名誉となったことでしょう。

■エピローグ「苦い盃」

とまぁそんな具合に楽しく愉快な時は過ぎ去り、元久2年(1205年)6月22日。

「武蔵国留守所惣検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)畠山次郎、この愛甲三郎が討ち取ったり!」

坂東武者の鑑と謳われ、皆から敬愛されていた重忠の首級を上げて、季隆は何を思ったのでしょうか。

坂東武者の鑑・畠山重忠(中川大志)を射止めた愛甲季隆とは何者だったのか【鎌倉殿の13人】


畠山重忠の最期。身体に突き立った矢の一筋々々が辛い。月岡芳年「芳年武者无類 畠山庄司重忠」

かつて(重忠に謀叛の疑いがかけられた時、必死に弁護したほどの)親友であった下河辺行平や、先陣を真っ先駆けていた安達景盛(演:新名基浩)を出し抜いて、この手で重忠を討ち果たした。討ち果たしてしまった。

誰もが避けたかったけど、誰かがやらねばならぬなら、自分が進んで出たまでのこと。

季隆はじめ御家人たちは畠山一族の遺領が分け与えられ、7月1日には和田義盛の椀飯で酒宴が開かれたものの、その盃はさぞや苦かったことと拝察します。

※参考文献:

  • 関幸彦ら編『源平合戦事典』吉川弘文館、2006年11月
  • 安田元久『武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる』有隣新書、1984年12月
  • 湯山学『相模武士 四 海老名党・横山党 曽我氏・山内首藤氏・毛利氏』戎光祥出版、2011年9月

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