徳川家康(とくがわ いえやす)と言えば、三河国の小大名・松平(まつだいら)家に生まれて幼少期を人質として過ごし、数々の苦労を乗り越えたことで知られています。

そんな家康が天下人にまで上り詰められたのは、多くの忠臣たちが献身的な奉公で支えたからこそ。


今回はそんな忠臣の一人・天野康景(あまの やすかげ)を紹介したいと思います。まさに家康へ命を奉げた人生でした。

■幼い竹千代に小姓として仕える

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天野三郎兵衛康景。「小牧長久手合戦図」より

天野康景は天文6年(1537年)、三河国(現:愛知県東部)の国人・天野景隆(かげたか)の子として誕生しました。

その祖先は、かつて源頼朝(みなもとの よりとも)の挙兵に従い、数々の武勲を立てて鎌倉幕府の重鎮となった天野遠景(とおかげ)と言われています。

【天野氏略系図】

遠景-政景-景経-遠時-経顕-経政-景隆(近江守)-秀政-景政-景顕-景保-景秀-定景-遠直-景行-遠房-景隆(甚右衛門)-康景……

※『寛政重脩諸家譜』巻第八百七十七「藤原氏 爲憲流 天野」より

幼名は不詳、後に元服して通称を又五郎(またごろう)・三郎兵衛(さぶろうひょうゑ)、諱を景能(かげよし)と称しました(後に康景と改名。本稿では便宜上「康景」で統一)。

幼いころから松平広忠(まつだいら ひろただ)に仕え、広忠の嫡男・竹千代(たけちよ。後の徳川家康)の小姓となりました。

5歳年少(天文11・1542年生まれ)の竹千代にとって、お兄さんのような存在だったのかも知れません。

天文16年(1547年)、竹千代が6歳の時に今川義元(いまがわ よしもと)の人質として駿河国(現:静岡県東部)へ送られることになった時、康景はこれに随行。お供はほか2名しかおらず、よほど信頼されていたのであろうと思われます。


しかし道中で家臣の戸田康光(とだ やすみつ)が裏切ったことによって行先を変更。尾張国(現:愛知県西部)を支配する織田信秀(おだ のぶひで。信長の父)の元へ送られたのでした。

忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】


途方に暮れる竹千代(イメージ)

「又五郎よ、わしらはどうなってしまうのじゃ……」

「ご案じ召さるな。何があろうと我らが若君をお守りいたしますゆえ……」

2年後の天文18年(1549年)には当初の予定通り駿河国へ引き渡されたのですが、それから10年以上の歳月を人質として過ごした竹千代。康景たちの献身的な支えなくしては、とても耐えきれなかったのではないでしょうか。

■信仰よりも忠義を選ぶ

さて、永禄3年(1560年)に今川義元が桶狭間の合戦で討死すると、竹千代改め松平元康(もとやす。独立後、徳川家康と改名)は混乱に乗じて悲願の独立を回復。三河の戦国大名として名乗りを上げました。

(※父・松平広忠は既に死去。死因については諸説あり)

しかし喜んでばかりもいられません。永禄3年(1563年)には支配下の西三河で一向一揆が勃発。
徳川家臣団の中でも一向宗(浄土真宗)に帰依している者がおり、少なからず寝返ってしまったのです。

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三河一向一揆。月岡芳年「三河後風土記之内 大樹寺御難戦之図」

「又五郎、そなたもか……!」

「いえ。それがしは信仰よりも御屋形様を選びます」

康景も日ごろ熱心な一向宗徒でしたが、家康への忠義をまっとうすることを決断。その場で棄教。奮闘の末、賊徒の一人・馬場小平太(ばば こへいた)を討ち取りました。

また一向一揆と連携していた吉良義昭(きら よしあき)を攻めて東条城(現:愛知県西尾市)を奪取します。

こうした忠義と武勇をもって認められた康景は永禄8年(1565年)に三河国の奉行職を拝命。共に任じられた高力与左衛門清長(こうりき よざゑもんきよなが)と植村庄右衛門正勝(うえむら しょうゑもんまさかつ)と並んで三河の三奉行と称されました。

後に植村正勝は本田作左衛門重次(ほんだ さくざゑもんしげつぐ)と交代し、人々は「仏高力、鬼作左。どちへんなきは天野三郎兵衛」と囃したとか。

この「どちへんなき」は「どちらへんでもない」つまり偏りがない公正さや性格が極端でない穏やかさを示したもの。
やさしい高力と、怖い作左衛門の間に立ってバランスをとっていたことがうかがわれます。

やがて家康が遠江国・駿河国と勢力を東へ広げると高力や作左衛門もそれに従い、康景は三河国を任されるようになりました。

■勝ったり負けたり戦歴を重ねる

その後も永禄12年(1569年)に天方城(現:静岡県周智郡森町)攻めで榊原康政(さかきばら やすまさ)・大久保忠隣(おおくぼ ただちか)らと共に武功を立てます。

天方城攻めでは首級を上げる活躍を見せたものの、返り討ちにあったのか手傷を負ってしまいました。

続く元亀元年(1570)6月28日、姉川の合戦では加藤喜助正次(かとう きすけまさつぐ)と共に朝倉景健(あさくら かげたけ)の軍勢に勝利。激しい戦闘の結果、両軍が流した血によって川面が赤く染まったと言います。

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苦境に陥る徳川勢。楊洲周延「味方ヶ原合戦之図」

しかし勝利の美酒に酔えば敗北の苦杯をなめることもあるのが武門の習い。元亀3年(1573年)12月22日、三方ヶ原の合戦では武田信玄(たけだ しんげん)の軍勢に惨敗。
徳川方は這々(ほうほう)の体で逃げ出しますが、武田勢は猛然と追撃してきます。

少しでも足止めしようと奮戦する康景は、少しでもよい敵を倒そうと金の馬鎧(文字通り、馬に装着する防具)をつけた騎馬武者と槍を交えました。

実力伯仲の死闘を演じていると、少し離れたところから武田方の者が弓で康景の背後に狙いをつけます。


「又五郎、背後から弓で狙われとるぞ!」

声をかけたのは仲間の内藤四郎左衛門正成(ないとう しろうざゑもんまさなり)。敵が逃げたお陰で康景は危機を脱しました。

ただし槍を交えていた騎馬武者との勝負もうやむやになり、頃合いと見た康景たちは家康の後を追って浜松城へ逃げ込みます。

「ここまで来れば、ひとまずは安心か……しかし、このままでは癪に障る。一矢報いてやりたいもんじゃのう」

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後世の戒めとして、自らの醜態をあえて描かせた家康。作者不詳「徳川家康三方ヶ原戦役画像」

植村正勝と共に大手門を警護していた康景は、大久保忠世(おおくぼ ただよ)と共に夜襲を仕掛けました。

「……よし、かかれ!」

浜松城から北に1キロほどの犀ヶ崕(さいががけ)で武田の陣を襲撃。『織田軍記』によると双方の被害は徳川535名、武田409名とのことで、やはり敗戦で疲労困憊していた無理がたたったようです。

※なお、この犀ヶ崕の夜襲は当時の史料に記録がなく、江戸幕府による史料では「十数挺の鉄砲とわずかな兵で武田方を攪乱し、多数を崖から追い落とす戦果を上げた」など荒唐無稽な内容となっています。

とは言え、ただ負けてばかりでは収まらない三河武士の意地を見せつけたことは確か。この時の武勲により、康景は三河国渥美郡に200貫の知行を給わったのでした。

■下女が夢に見た連歌を披露

さて。
いかに戦国乱世の武士と言っても、年がら年中戦ってばかりではなく、プライベートな時間や楽しい出来事だって当然あります。

康景は牛田庄右衛門行正(うしだ しょうゑもんゆきまさ)の娘を正室に迎え、天正2年(1574年)には嫡男の天野康宗(やすむね)を授かりました。

また天正3年(1575年)正月には、こんな出来事があったとか。康景に仕えている下女が、不思議な夢を見たと言うのです。

「何か知らねえけど、夢の中でみんなが五七五七七で話をしてんですよ。おらすっかり覚えちまって……」

内容を聞いてみると、複数名での和歌をつないだ連歌でした。

「不思議なこともあるものだ。このめでたい(※)連歌は徳川家の吉兆やも知れぬ。さっそく御屋形様へお知らせいたそう」

(※)内容は不詳。ただし不吉であれば祝賀の席で披露されることもないでしょうし、めでたいものと推測。

「ほぅ、これはよい。さっそく二十日の祝いで披露しよう」

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御鎧の賀儀。
鎧開きなどとも呼び、甲冑を祀ることで武運長久などを願う(イメージ)

家康は1月20日、御鎧の賀儀(おんよろいのがぎ。鎧開き・具足始め。二十日は刃柄に通じて武士の縁起担ぎとされた)において連歌会を催しました。

「天野の下女が、夢でかような歌を聞いたそうな。これを発句に詠もうではないか……」

かくして連歌会は大盛況。その年は長篠の合戦において武田勝頼(かつより。信玄の子)に大勝利。三方ヶ原の雪辱を果たしたのでした。

あの夢は天のご加護だったに違いないと、これ以来毎年の連歌会においてこの連歌が詠まれたということです。

【後編へ続く】

※参考文献:

  • 煎本増夫『戦国時代の徳川氏』新人物往来社、1998年10月
  • 煎本増夫 編『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年1月
  • 『寛政重脩諸家譜 第五輯』国民図書、1923年1月
  • 新井白石『新編藩翰譜 第5巻』人物往来社、1968年1月

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