■前編のあらすじ

徳川家康(とくがわ いえやす)の人質時代からずっと忠義を尽くしてきた天野康景(あまの やすかげ)。三河一向一揆や姉川・三方ヶ原など数々の戦さで武功を重ね、家康を支え続けました。


前回の記事

忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】

そんな中、又しても家康を苦難が襲うのですが、康景たちはどう乗り越えたのでしょうか。

■苦難の伊賀越えで影武者を務める

さて、着実に勢力を伸ばしていた家康ですが、天正10年(1582年)に三方ヶ原以来の大ピンチが襲います。

6月2日に京都・本能寺で家康の盟友(実質的に盟主・庇護者)であった織田信長(おだ のぶなが)が横死。

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火中へ身を投じた信長。楓川亀遊「本能寺夜軍」

その時、堺にいた家康は動転のあまり「上洛して追い腹を切る」などと言い出してしまいます。

「落ち着いて下さい。御屋形様のなすべきは、追い腹よりも織田殿へ謀叛した明智光秀(あけち みつひで)への仇討ちにございます」

「そうです。まずは急ぎ本国へ戻り、軍勢を整えましょうぞ」

本多忠勝(ほんだ ただかつ)はじめわずかな供しか連れていなかった家康は、堺より伊賀を越えて岡崎へ帰還(いわゆる神君伊賀越え)。とは言え、その道中は中央の混乱に乗じて落ち武者狩りが横行しており、決して油断のならない状況でした。

「それがしが御屋形様の鎧を着て影武者となりましょう」

康景は家康の鎧を着ることで人目を引きつけ、いざ襲われた時も奮戦して野盗らを撃退したということです。

果たして無事に岡崎へ生還できた家康一行ですが、そのころには一足先に織田家の重臣・羽柴秀吉(はしば ひでよし。後に豊臣秀吉)が明智光秀を討ち滅ぼし、織田政権の継承を逃してしまいました。


その後、秀吉は同じく織田重臣の柴田勝家(しばた かついえ)を滅ぼして織田家を掌握、家康を西から脅かします。一方の東は南関東の雄・北条氏直(ほうじょう うじなお)が勢力をのばしており、家康は北条との同盟を堅持して秀吉との対決姿勢を整えます。

康景は天正11年(1583年)に駿河国江尻城(現:静岡県静岡市)の城代として背後を固めました。

本当は最前線(西)へ出たかったでしょうが、めったな者に背中は預けられません。康景が守っていたからこそ、家康は秀吉との対決に専念できたのでしょう。

■ついに城持ち大名となった康景

やがて小牧・長久手の合戦(天正12・1584年3月~11月)を経て秀吉と和睦した家康は、天正14年(1586年)に秀吉の妹である朝日姫(あさひひめ)を娶ります。

康景は朝日姫を迎えにいくため大坂城へ赴き、秀吉から貞宗(さだむね。鎌倉時代の刀工、正宗の養子か)の銘刀を与えられました。

またこの年、康景は甲賀忍者(近江甲賀の士83騎と家士24名)の統率を任され、彼らの扶持をまかなうため三河遠江の両国において2,200貫の知行を拝領。

家康の天下取りに重要な諜報活動も担うことになり、徳川家中においてますますその存在感を高めていったのです。

忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・後編【どうする家康】


奮闘する天野三郎兵衛康景。武勇だけでなく、貴人を饗応できる教養も備えた両道の士であった。
歌川芳虎「後風土記英雄伝」より

天正18年(1590年)に秀吉が北条征伐の兵を興すと康景は駿河国清見寺にて彼らを饗応。のち小田原に布陣していた家康と合流します。

そして北条氏が滅亡すると家康はこれまでの東海5ヶ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)から関東への国替えを命じられ、康景もこれに同行。後に下総国香取郡大須賀(現:千葉県成田市)に3,000石の所領を賜りました。

やがて秀吉が亡くなり、慶長5年(1600年)に上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を討伐する兵を興した時は大坂条西丸で城代を務め、関ケ原の合戦では本拠地・江戸城の御留守居を務めます。

康景が守っていてくれるからこそ、存分に戦える……かくして関ヶ原で勝利を収めた家康は慶長6年(1601年)、富士駿東二郡のうち1万石を康景に下賜。ここに康景は大名となり、駿河国興国寺城(現:静岡県沼津市)を預かったのでした。

更に慶長7年(1602年)には家康から康の字を拝領して康景と改名。奏者番(そうじゃばん。将軍と家臣の取り次ぎ役)を務めるなど徳川政権の中心を担ったのです。

幼少期の人質時代からずっと寄り添い続け、三河一向一揆・三方ヶ原・伊賀越えと数々の苦難を共に乗り越えてきた家康と康景の絆は、まさに主従を越えたものだったことでしょう。

■本多父子に陥れられ、改易処分の不遇な晩年

このまま天寿をまっとうして欲しかったところですが、康景の晩年に大きな不幸が襲います。


慶長12年(1607年)3月9日、康景の下卒が領民を殺したかどで本多正信(ほんだ まさのぶ)・本多正純(まさずみ)父子から責められ、改易されてしまうのです。

忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・後編【どうする家康】


天野康景を陥れた本多正信。佐々木龍泉筆

「そなたの預かる所領は天領であり、その領民はいやしくも公民である。たとえ彼らが盗みを働いたからと言ってそれを殺してしまうのは、御公儀の権威を損ねるものである(意訳)」

実は以前から康景が蓄えておいた材木がしばしば盗まれてしまうため、家臣に命じて見張らせていました。

そこへまた盗みを働いたので殺したところ、本多父子によって言いがかりをつけられてしまったという次第。

「「さぁ、ただちに下手人どもを引き渡されよ!」」

困ったことになりました。ここで家臣らを引き渡せば、理不尽な罪を認めてしまうことになります。

もしかしたら、元から康景を陥れる目的で領民を買収でもしていたのかも知れません(後に老中の大久保忠隣も本多父子によって失脚に追い込まれました)。

とは言え、ここで意地を通せば永年の忠義が水泡に帰してしまう。それだけは、絶対に避けねばなりません。

(おのれ本多め……かつて三河一向一揆では大御所様に楯突いた帰り新参≒一度裏切って再び仕官した者の分際で、譜代の忠臣を貶めようとは……)

葛藤の末、康景は「保身のために忠義や道理を曲げることは、我が生き方ではない!(直きをまげて曲れるに随はん事、素懐にあらず。新井白石『新編藩翰譜』より)」として城も所領も放棄して出奔してしまったのです。


相模国小田原にある西念寺に蟄居した康景は、そのまま現地で没したのでした。時に慶長18年(1613年)2月24日、享年77歳。

■終わりに

忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・後編【どうする家康】


家康が天下を獲れたのは、康景のような忠臣たちの献身的な奉公ゆえ。大河ドラマ「どうする家康」では、犬にも喩えられた三河武士たちの忠義を堪能したい。

以上、天野康景の生涯をごく駆け足でたどってきました。嫡男の天野康宗(やすむね)は寛永5年(1628年)に赦されて旗本となり、その家名を後世へ受け継いでいきます。

【天野氏略系図】

遠景-政景-景経-遠時-経顕-経政-景隆(近江守)-秀政-景政-景顕-景保-景秀-定景-遠直(とおなや)-景行-遠房-景隆(甚右衛門)-康景-康宗-康隆-康命(やすよし)-康能(やすよし)-康建(やすたて)-康房-康哉(やすちか)……

※『寛政重脩諸家譜』巻第八百七十七「藤原氏 爲憲流 天野」より

ここまで家康の身近に寄り添い続けた忠臣ですから、令和5年(2023年)NHK大河ドラマ「どうする家康」にもきっと登場するでしょう。

史実の名場面を再現してくれるのか、それとも見事にアレンジしてくれるのか……今から楽しみに注目したいところです。

【完】

※参考文献:

  • 煎本増夫『戦国時代の徳川氏』新人物往来社、1998年10月
  • 煎本増夫 編『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年1月
  • 『寛政重脩諸家譜 第五輯』国民図書、1923年1月
  • 新井白石『新編藩翰譜 第5巻』人物往来社、1968年1月

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