和菓子の「おこし」と言えば「雷おこし」が有名ですが、実は大阪の「岩おこし」「粟おこし」などもあります。
おこし
そもそも「おこし」とは、蒸して乾燥させた米や粟を水飴や砂糖で固めたもので、日本最古のお菓子とも言われています。
弥生時代の遺跡からは、米を蒸して乾燥させた「糒(ほしいい)」が出土しており、これがおこしの起源とも考えられています。
また、『日本書紀』中の「神武天皇の祝詞(のりと)」には、豊作祈願として糒を蜜で固めたものを神に捧げたことが記述されています。
また現在のおこしの原型となったのは、平安時代に遣唐使によって持ち込まれた唐菓子のひとつ「粔籹(きょじゅ)」とも言われています。
粔籹の製法は、当時の百科事典である『倭名類聚抄』にも記されています。
■神前にも捧げられた
他にも『延喜式』でには神前に供えたと記録されており、『古今著聞集』には公卿の藤原忠通が正月に口にしたとあります。
当時、おこしは「おこしごめ」と呼ばれており、平安貴族にも珍重されていました。口元にあてて握り砕いたところで、衣の上にぱらぱらとふりかかったのを払う様子が優雅だと言われていたようです(やや理解に苦しみますが)。

手作りのおこし
そして江戸時代初期の料理書『料理物語』や、百科事典『和漢三才図会』には糒・おこしの製法が記されています。この頃になると穀物と水飴などが調達できれば庶民でも作れるようになり、各地でおこしが作られ、庶民的なお菓子へと変わっていきました。
その中でも特に有名なのが、大阪の「粟おこし」や「岩おこし」、江戸の「雷おこし」です。
■「栗おこし」の誕生
大阪では「粟おこし」が大阪名物として知られるようになりますが、1752(宝暦2)年に創業した「つのせ」により現在の粟おこしの形態が確立されたと言われています。

粟おこし
それまでのおこしは原材料に粟や稗を使っており、形状も手で握ったつくねのような形や、竹筒に入れた形状をしていました。
「つのせ」初代清兵衛は、原材料に米を用い、その米をあえて細かく砕いて粟のような形状にして板状に延ばしたものを「粟おこし」と銘打って大々的に販売し始めたのです。
当時の大坂は天下の台所であり、良質な米が全国各地から多く集まっていました。清兵衛はこれに目を付けたのです。一見粟粒のようで、実は米を使っているという斬新なアイデアが人気を呼び、砂糖の消費量が瀬戸内で随一となるほど売れました。
(後編へ続きます)
参考資料
- 和菓子の季節.com
- 株式会社つのせ
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan