そして、これによって鎌倉幕府は崩壊、翌年に後醍醐天皇は新政権を打ち立てたのでした。
文観開眼『絹本著色後醍醐天皇御像』(清浄光寺蔵、重要文化財)
一般的に学校で教わる鎌倉幕府の滅亡に到るストーリーは、上記のようだと思いますが、実は、鎌倉幕府滅亡の裏には後醍醐天皇による呪いの力が働いていたかもしれません。
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後醍醐天皇は、後宇多天皇の次男として誕生。1381(文保2)年に天皇として即位しました。彼は国の政治は、天皇自ら行うのが本来の姿だという強い信念をもっていました。
当時の後醍醐天皇にとって悲願は、鎌倉幕府を倒し、新しい国を造ること。そこで、二度も倒幕を計画するも、その都度陰謀が明るみに出てしまい失敗してしまいます。
ついに1332(元弘2)年、隠岐に流されることになってしまいます。
ところが、減刑になっても後醍醐天皇の信念は揺るぎませんでした。隠岐にいて何も出来ない状況の中、彼は次第に真言立川流に傾倒していきます。
この立川流は、「究極の悟りは男女の交合をもって可能にする」という,今の価値観で考えてもちょっとヤバい流派。
にもかかわらず、後醍醐天皇は立川流を築いた文観(もんかん)を召し抱え、呪術の世界に自ら手を染めていくようになりました。特に行われたのが「大聖歓喜天浴油供」という秘法。
これは、どのような悲法悪行でも必ず成就させるが、一歩間違えれば行者自身が滅ぼされるリスクがあるというとても危険なもの・・・。それを行わざるを得ないほど、当時の後醍醐天皇たちは切羽詰まっていたということでしょうか。
いずれにいせよ、後醍醐天皇は自ら法衣をまとって、幕府を呪いながら一心不乱に祈祷していたと伝えられています。
後醍醐天皇の秘法が届いたのか、北条高時の周りには奇怪な現象が起きていたといいます。
そのひとつの事例として、『太平記』の「相模入道田楽を好む事」(五巻の4)には、高時が異形のものと化け物のお囃子で、田楽舞を踊っていたという記述があります。
ある晩、酒に酔った高時が、当時京都で大流行だった田楽舞を自ら踊っていると、どこからかともなく十数人の田楽一座が現れて、高時とともに舞い歌っていました。
高時の屋敷に仕えていた一人の女中が、その面白そうな様子に障子の穴から少し覗いてみると、田楽一座の踊り手と思っていたものは全て“人ならざるもの”。

あるものは口ばしが曲がり、あるものは背に翼をはやした山伏姿で「ただ異類異形の怪物どもが、姿を人に変じたるにてぞありける」といった状況だったとか。
驚いた女中が家の中にいた高時の舅に訴えると、化け物たちはかき消すように姿を消し、座敷には高時が一人酔いつぶれて熟睡。
このこと一つ挙げてみても、もしかしたら鎌倉幕府滅亡の裏には、後醍醐天皇の呪いが影響しているのかもしれません。
参考
- 太平記研究会『新訂 太平記 第1巻』(2013 東京堂出版)
- 「後醍醐天皇と闇の呪術戦争」『月刊ムー』No.126( 1991 ワン・パブリッシング)
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