後鳥羽上皇の従妹。源実朝の正室。京都から源実朝(演:柿澤勇人)の正室として、鎌倉へ嫁いできた千世(演:加藤小夏)。鎌倉殿の御台所として実朝を最期まで支え続けました。
※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより
劇中では後鳥羽上皇(演:尾上松也)の従妹として紹介されており、これは上皇の母・坊門殖子(ぼうもん しょくし。七条院)が千世の父・坊門信清(のぶきよ)の姉に当たるためです。
坊門家略系図。筆者自作
後に坊門姫(ぼうもんひめ)・西八条禅尼(にしはちじょうぜんに)と呼ばれた彼女はどんな生涯をたどるのでしょうか。今回はその生涯をたどってみましょう(以下、本稿では坊門姫で統一)。
■13歳で実朝と結婚
坊門姫は建久3年(1192年)、坊門信清の娘として誕生しました。実朝が建久3年(1192年)生まれなので、同い年ですね。
兄弟には坊門忠信(ただのぶ)・坊門忠清(ただきよ)がおり、それぞれ後鳥羽上皇・順徳院(じゅんとくいん。後鳥羽上皇の第3皇子)の寵臣として活躍しています。

鎌倉へ下向する坊門姫(イメージ)『故実叢書』より
13歳となった坊門姫は元久元年(1204年)11月3日に鎌倉へ出発しました。
……将軍ガ妻ニ可然人ノムスメアハセラルベシト云事出キテ。信清大納言院〔後鳥羽〕ノ御外舅。七條院〔殖子〕ノ御ヲトト也。ソレガムスメヲホカル中ニ。十三歳ナルヲイミジクシ立テ。関東ヨリ武士ドモムカエニマイラセテ下リケルハ元久元年十一月三日也……御台所ご一行は一ヶ月少しをかけてゆっくりと鎌倉へ到着。しかし鎌倉の様子が祝賀ムードであったか、また婚礼の具体的な様子などは『吾妻鏡』に記録がありません。
※『愚管抄』第六巻より
【意訳】実朝の妻にしかるべき者の娘を娶(めあ)わせようということで、坊門信清の娘が大勢いる中から13歳の子を選び、関東から御家人たちに迎えられて下向した。元久元年11月3日のことである。
御臺所御下着云々。その後も結婚自体を祝うような記述はなく(例年どおり正月などは祝っていますが)、いくら政略結婚とは言っても、ちょっと素っ気なさすぎる気はします。
※『吾妻鏡』元久元年(1204年)12月10日条
【意訳】御台所が(鎌倉へ)お着きなされたそうな。

夫婦仲は円満だったと言いますが、実朝との間に子供は生まれず、その立場が非常に不安定(満足な後ろ盾も得られず、ほぼ実朝との関係のみに依存する状態)であったことは想像に難くありません。
(当時の女性は跡継ぎとなる男児を産むか否かが、嫁ぎ先での命運を分かつことも少なくありませんでした)
■実朝の死後、出家して帰京
実朝との夫婦生活が約14年続いた建保7年(1219。承久元年)。1月27日に実朝が甥の公暁(演:寛一郎)に暗殺されると、翌1月28日に寿福寺で出家。本覚尼(ほんがくに)と号して帰京します。

公暁によって暗殺される実朝。月岡芳年筆
鎌倉殿の後家尼ではあっても、姑の政子(演:小池栄子)と違い守ってくれる後ろ盾がいないため、尼御台として鎌倉に残ることはリスクでしかありません。また北条氏としても厄介払いしたかったことでしょう。
京都へ戻った坊門姫は西八条に住んだのか西八条禅尼(意:西八条の禅宗の尼さん)と呼ばれ、実朝の菩提を弔っていました。
しかし朝廷と鎌倉の対立が激化すると、承久3年(1221年)に承久の乱が勃発。兄たちは後鳥羽上皇に味方して敗れ去ります。
「此度、上皇陛下を唆した張本人としてその罪は赦し難し」
兄たちが極刑に処されることを知った坊門姫は鎌倉に対して助命を嘆願。
やがて実朝の菩提寺として遍照心院(へんじょうしんいん。現:大通寺。京都市南区へ移転)を建立。文永11年(1274年)9月18日に83歳で没するまで安らかな余生を送ったということです。
■終わりに
以上、千世こと坊門姫の生涯をごく駆け足でたどってきました。

実朝肖像。痘痕はあえて描かない優しさ。『國文学名家肖像集』より
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、なかなか心を開いてくれなかった夫・実朝と少しずつ打ち解け合い、夫婦らしい関係を始められそうです。
間もなく実朝は天然痘(疱瘡)を患い、その後遺症で痘痕(あばた)顔になってしまいますが、傷つく夫に優しく寄り添う姿が期待されます。
『吾妻鏡』ではあまり詳しく書かれていない二人の関係を、三谷幸喜がどんな脚本に描いていくのかが楽しみです。
※参考文献:
- 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版新書、2021年9月
- 丸山二郎 校訂『愚管抄』岩波文庫、1949年11月
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