満州事変を正当化したとされるスローガンに、有名な「満蒙(満州)は日本の生命線」というのがあります。
しかし実はこの言葉、「だから満州を支配し続けよう」という意味ではありませんでした。
このあたりの真相を解説します。
もともと、満州という地域は1904(明治37)年~1905(明治38)年の日露戦争で日本が獲得した土地でした。しかしそれから20年も経った1930年代になると、当地を取り巻く状況は変化していました。
日露戦争の戦没者慰霊碑「顕誠塔」(小樽公園)
当時、中国は北伐や上海クーデターを起こした蒋介石率いる国民政府が国内全土を掌握していました。そして「日本が掌握している満州の権益を取り戻す」と宣言していたのです。
単純に考えれば、日本人がこれを聞いたら怒るでしょう。しかし日本国内でも、満州というごく小さな土地を重要視するような世論ではなくなりつつありました。
なぜかというと、既に日露戦争の記憶が薄れていたからというのもありますが、その方が経済的に有利だったからです。

蒋介石(Wikipediaより)
満州と中国全土を比べた場合、土地の広さや商売の規模を考えると、日本政府が得られる利益が大きいのは言うまでもなく中国全土です。
となれば、むしろ新たなリーダーである蒋介石と良好な関係を築き、中国全土との経済活動を活発化させた方が有益だと考えるのも当然でしょう。
こうなってくると、切ない思いをするのは満州です。
■松岡洋右「ぼくの満州を守って」
この頃、満州の財源とも言える南満州鉄道は赤字続きで経営も苦しくなっていました。
日本国内でも、満州はやや「お荷物」的な扱いでした。南満州鉄道は経営が苦しいし、あまり満州にこだわれば蒋介石との関係が悪化するかも知れません。
こうして満州の優先順位は低くなり、露骨に「見捨てる」という状況に近くなっていきます。
しかし当地では多くの日本人が働いています。彼らは皆、日本の発展のためにと送り込まれた人々でした。満州鉄道の関係者や、日本人の護衛のために送り込まれていた関東軍は不安だったことでしょう。

中国・瀋陽駅。「満州鉄道五大停車場」のひとつ「奉天駅」として1910年に完成した。
こうした状況の中で、1931(昭和6)年1月の帝国議会で「満蒙は日本の生命線」というスローガンを掲げて演説したのが、当時の野党である政友会の議員、松岡洋右(まつおか・ようすけ)でした。
この演説はとても長いので引用はできませんが、彼はかつて元満州鉄道の副総裁を務めたこともあり、このようなキャッチーなフレーズによって、再び人々の目を満州に向けさせたのです。
このスローガンは人々の間で広まり、「~は生命線」という流行語も生まれています。

立憲政友会代議士時代の松岡洋右
しかし間もなく、満州事変の引き金とも言える柳条湖事件が、現地の関東軍によって引き起こされました。
この大まかな流れだけを見ると、あたかも松岡と関東軍は思想的に共鳴しており、植民地としての満州を死守しようとしたかのように思われますね。
しかし、実は全く違います。むしろ両者は無関係で、松岡は柳条湖事件による「被害者」でもありました。
■無に帰した松岡の希望
松岡が目論んだのは、満州の経済活動を活発なものにして、まずは満州鉄道の経営状態を回復させることでした。そして、ゆくゆくは日本の経済にも還元するというビジョンを持っていたのです。
そのために、国防面での重要性をリンクさせて「満蒙は日本の生命線」と述べたのでした。
一方、当時は世界的に「軍縮」がトレンドだったこともあり、満州に駐屯していた関東軍は、松岡とは全く違う意味で焦っていました。
軍縮が進めば、軍に対する予算も削減され、人員も減らされます。そうなれば軍人たちは食いっぱぐれますし、その上日本は満州をも見捨てようとしている。
ならば自分たちは自分たちで行動を起こそうと、一か八かの賭けに出たのが柳条湖事件、ひいては満州事変だったのです。
その後の経緯は割愛しますが、関東軍の動きを日本政府が追認する形になり、日本政府と満州、そして日本政府と蒋介石の関係も悪化していきました。

関東軍の「暴走」を追認する形になった当時の総理大臣・若槻礼次郎(Wikipediaより)
こうして、満州が経済的恩恵を受ける道筋は絶たれました。
こうして見ると、松岡が「被害者」だったというのが分かると思います。彼は満州事変のような事件を起こして、侵略を進めていこうとは考えていませんでした。
あくまでも、日本と中国が経済関係を重要視するのなら、満州も利益を得られるように「仲間に入れて欲しい」という考えだったのです。
実際、彼は満州事変の知らせを聞いてがっかりし、自著でも「私の努力は無に帰した」と書いています。
どうも松岡洋右という人物はツキがなく、日本史上の重要なポイントで必ず名前が出てくるにもかかわらず、誤解されて悪役扱いされて語り継がれてきた感があります。
国際連盟脱退の際のエピソードなど最たるもので、そろそろこうした世間の誤解も解いてやりたいところです。
国際連盟脱退も、実は日本は「孤立」していなかった!?松岡洋右「堂々退場」の本当の理由とは
参考資料
井上寿一『教養としての「昭和史」集中講義』SB新書、2016年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan