■前回のあらすじ
時は建暦3年(1213年)、泉親衡(いずみ ちかひら)の乱によって捕らわれた御家人たち。
その中に、和田義盛(演:横田栄司)の息子と甥も加わっていました。
これは何かの間違いだ……さっそく義盛は源実朝(演:柿澤勇人)の元へ駆けつけるのでした。
前回の記事
「鎌倉殿の13人」泉親衡とは何者か?北条義時・和田義盛の開戦前夜…第40回放送「罠と罠」予習【上】
■「無数の和田義盛」がやって来た!
「ウリン(羽林)、今までそれがしがどれほど鎌倉に貢献してきたか、覚えておいででしょうか!?」
義盛は挙兵以来の勲功を並べ立てて泣き落としにかかり、情にほだされた実朝は捕らわれていた和田義直(義盛の四男)と和田義重(同じく五男)を赦免しました。
義盛の五男・和田義重。歌川国芳筆
「ありがとうございます!」
これで面子が立ったから、とひとまず満足げに帰って行った義盛。
「いいのですか?父に功績があれば、子の罪が赦される。これは果たして、公平な政と言えるのでしょうか」
「……申すな」
「一度こういうゴネ得が通ると、次は要求がエスカレートするものですぞ」
果たして翌日、義盛は和田一族98人を引き連れて御所にやってきました。今度は甥の和田胤長も赦免してくれと要求しています。
「ホラ、言わんこっちゃない……」
ヒゲむさい和田義盛。こんなのが(当人含め)99人で押しかけてきた日には……(イメージ)歌川国芳筆
しかし胤長は昨日釈放した義直や義重と異なり、積極的に謀叛を主導していた一人。さすがにどれほど泣き落とされても無罪放免とはいきません。
「和田よ。そなたたちを忍びなくは思うが、流石に……」
「甘い!鎌倉殿は甘すぎるのです!だから和田殿がつけ上がるのです!」
義時は配下に命じて胤長を縛り上げて烏帽子を奪い取り、和田一族の面前で引き回して晒し者にするという鬼畜の振る舞いに及びました。
当時の男性にとって、頭髪をさらすのはパンツが脱げてしまうくらい恥ずかしいこと。義時のしたことは、現代で言えば「全裸にして縛り上げ、街中を引きずり回す」くらいの暴挙と言えるでしょう。
「このくらい断固たる態度で臨めば、下らぬワガママも言わなくなるでしょう!」
「「「ふざけやがって!」」」
無数の和田義盛たちが、それはもう怒るまいことか。この時に義盛は報復(≒謀叛)を心に決めたと言いますが、よくこの時点で暴動が起きませんでしたね。
■胤長と引き離され……愛娘・荒鵑の死
「父上……」
胤長には荒鵑(こうけん。鵑はホトトギスの意)という6歳になる幼い娘がおり、大好きな父と引き離された悲しみの余り、病に倒れてしまうのでした。
「父上……父上……」
もはや回復の見込みはなく、せめて嘘でもいいから父上を感じさせてあげようと、胤長に似ていると評判の和田朝盛(とももり。義盛の孫)にお芝居をさせました。
「荒鵑や、父だよ。いま帰って来たんだよ。さぁ、いい子だから、お願いだから目を開けておくれ……」
「父、う……」
わずかに目を開けた荒鵑は、そのまま息絶えてしまいます。彼女の瞳に、せめて愛しい父が映っていたことを願うばかりです。
荒鵑の火葬(イメージ)
亡骸はその夜の内に火葬され、母親は「もはや胤長も永くは生きまい(殺されるだろう)」とばかり将来を悲観。27歳の若さで出家したのでした。
義盛は、亡き頼朝公の時代から通例であった通り、胤長の館を求めます。罪によって没収された土地や館は、その一族に下げ渡されるのが習わしでした。
「もちろん、いいとも!」
「ありがとうございます。これで出仕も楽になります」
胤長の館は将軍御所のすぐ東隣なので便利ですが、これに横槍を入れたのが又しても義時です。
「いけません!あんな場所を与えたら、鎌倉殿の喉元に刃を突きつけさせるようなものです!」
「そなたの気持ちも解りますが、和田を侮ってはなりませんよ」
母の尼御台・政子(演:小池栄子)もこれは看過できずに口添え。結局実朝は折れて義盛への許可を撤回、胤長の館は改めて義時に与えられたのでした。
■和田一族と鎌倉殿の板挟みになり、出家した和田朝盛
鎌倉殿の命令を意のままに操る義時を前に、義盛は歯噛みするばかりです。
「どこまでもふざけやがって……もういい、我ら一族を軽んじるなら、もはや誰も出仕に及ばぬ!」
怒り心頭の義盛は、一族にボイコットを命じました。
「「「ははあ……」」」
そんな中、和田一族に和田朝盛(わだ とももり。三郎)という者がおりました。義盛の長男・和田常盛(つねもり)の嫡男です。
先代・頼家の代から側近として仕えており、和歌の才能をもって実朝からも寵愛を受けています。長老・義盛の命に背くわけにはいきませんが、主君・実朝に逆らうのも本意ではありません。
このままだと、遠からず和田と北条(が大義名分に担いでいる鎌倉殿)は衝突する。どちらにも弓を引けない朝盛は、4月15日に御所へ潜入。こっそり実朝に面会しました。
朝盛と再会を喜ぶ実朝。しかし……(イメージ)
「ご無沙汰しております」
「おぉ、三郎か……会いたかったぞ」
朝盛が別れを告げにきたことを察した実朝は、これまでの忠功に報いるため数々の地頭職を授ける下文(ここでは辞令書)を書いて授けます。
出家遁世を果たせばそんなもの無駄になるのですが、それでも何か自分に与えられるものはないかと考えたのでしょう。あるいは「地頭職を授けたのだから、俗世に留まって欲しい」というメッセージが含まれていたのかも知れません。
「ありがたき仕合せ……然らば御免」
果たして御所を退出した朝盛は館に帰ることなく出家。敬愛する実朝から一文字とって実阿(じつあ。実阿弥)と改名、そのまま京都へと向かったのでした。
朝盛の出家を聞かされた義盛は、ただちに義直を派遣して連れ戻させます。朝盛は弓の名手であり、北条との衝突が避けられない現状においては欠くべからざる戦力です。
「……面目次第もございませぬ」
「申すでない」
僧侶の黒衣に身を包んだ朝盛と再会し、実朝は遠からず戦わねばならぬ身の上を深く憂えたことでしょう。
■完全に断たれた和平の希望
「どういう事だろう、何か不始末があったとも思えないが……」
義時調伏の祈祷(イメージ)
人々は「義時を調伏する(呪い殺す)ため、伊勢の神宮へ派遣したのではないか」などと噂しました。
無益な流血を避けたい実朝は、義盛の館へ宮内兵衛尉公氏(くないひょうゑのじょう きんうじ)を使者に派遣しました。
「おぅ、来たか」
出迎えた義盛は、ふとした拍子に烏帽子が脱げてしまいます。恥ずかしいことなので慌ててかぶり直しましたが、公氏にはこれが「首が落ちるようだ。戦えば必ず滅びるであろう」と予感したとか。
「(気を取り直して)……いやぁ、俺も右大将家(頼朝公)の時代から、随分と忠義に励んだものさ。しかし右大将家が亡くなって20年もしてないのに、今じゃこんな有り様だ……まぁ、いくら喚いたって、鶴の声が天上の鷁(げき。伝承の鳥)には届かないよ。謀叛の心配なんかしなくていい。だってそんな気力もないのだから……そう鎌倉殿へお伝えしてくれ」
そう答えた義盛でしたが、傍らに控える古郡左衛門尉保忠(ふるごおり さゑもんのじょうやすただ)や義盛の三男・朝夷奈義秀(演:栄信)らは眼をギラギラさせています。もちろん、武備も万全でしょう。
「そうか……」
報告を受けた義時は御家人たちに和田謀叛の動きを周知。一方、実朝はどうしても不安なので、夜に再度使者を派遣。今度は刑部丞忠季(ぎょうぶのじょう ただすえ)です。
「どうか自暴自棄にならず、鎌倉殿を信じて欲しい」
しかし義盛の態度(もちろん内心も)は変わりません。
「だから謀叛なんて起こしやしませんよ。鎌倉殿に何の怨みがある訳じゃねぇんだから……でもまぁ、小四郎があんまり理不尽なモンだから、若い連中が『お邪魔』するかも知れねぇ。そこまではさすがに俺も止めようがねぇなぁ」
もはや交渉の余地なく、刻一刻と開戦の時が近づいていきます。
■終わりに
「小四郎め、もはや我慢の限界じゃ!」血気に逸る和田一族(イメージ)
以上、『吾妻鏡』より泉親衡の乱から和田合戦の前夜(2月15日~4月27日)までたどってきました。
胤長の流罪は仕方がないにせよ、それを過剰に辱めたばかりか、通例に逆らって館を没収するなど義時の挑発が過ぎたようです。
とかく北条贔屓と言われる『吾妻鏡』ですが、こればかりはどう見ても義時の悪どさが隠せません。
間もなく始まる和田合戦において義盛ら一族は滅び去りますが、「鎌倉殿の13人」においてトップクラスの惨劇と後味悪さが予想されます。
視聴者諸賢におかれましては、来週再来週(第40~41回放送)にかけて、しっかりと覚悟を固めておくのがおすすめです。
【完】
※参考文献:
時は建暦3年(1213年)、泉親衡(いずみ ちかひら)の乱によって捕らわれた御家人たち。
その中に、和田義盛(演:横田栄司)の息子と甥も加わっていました。
これは何かの間違いだ……さっそく義盛は源実朝(演:柿澤勇人)の元へ駆けつけるのでした。
前回の記事
「鎌倉殿の13人」泉親衡とは何者か?北条義時・和田義盛の開戦前夜…第40回放送「罠と罠」予習【上】
■「無数の和田義盛」がやって来た!
天霽。鎌倉中兵起之由。風聞于諸國之間。遠近御家人群參。不知幾千万。和田左衛門尉義盛日來在上総國伊北庄。依此事馳參。今日參上御所。有御對面。以其次。且考累日勞功。さて、まだ謀叛騒ぎの余波が収束せず、各地から押し寄せた軍勢が鎌倉じゅうで押し合いへし合いしている中、和田義盛が上総国伊北荘(現:千葉県いすみ市辺り)から戻ってきます。且愁子息義直。義重等勘發事。仍今更有御感。不及被經沙汰。募父數度之勳功。被除彼兩息之罪名。義盛施老後之眉目。退出云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月8日条
「ウリン(羽林)、今までそれがしがどれほど鎌倉に貢献してきたか、覚えておいででしょうか!?」
義盛は挙兵以来の勲功を並べ立てて泣き落としにかかり、情にほだされた実朝は捕らわれていた和田義直(義盛の四男)と和田義重(同じく五男)を赦免しました。
義盛の五男・和田義重。歌川国芳筆
「ありがとうございます!」
これで面子が立ったから、とひとまず満足げに帰って行った義盛。
これに対して、義時は実朝に苦言を呈します。
「いいのですか?父に功績があれば、子の罪が赦される。これは果たして、公平な政と言えるのでしょうか」
「……申すな」
「一度こういうゴネ得が通ると、次は要求がエスカレートするものですぞ」
果たして翌日、義盛は和田一族98人を引き連れて御所にやってきました。今度は甥の和田胤長も赦免してくれと要求しています。
晴。義盛〔着木蘭地水干葛袴〕今日又參御所。引率一族九十八人。列座南庭。是可被厚免囚人胤長之由。依申請也。廣元朝臣爲申次。而彼胤長爲今度張本。「大変です!『無数の和田義盛』がやってきました!」殊廻計畧之旨。聞食之間。不能御許容。即自行親。忠家等之手。被召渡山城判官行村方。重可加禁遏之由。相州被傳御旨。此間。面縛胤長身。渡一族座前。行村令請取之。義盛之逆心職而由之云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月9日条
「ホラ、言わんこっちゃない……」

ヒゲむさい和田義盛。こんなのが(当人含め)99人で押しかけてきた日には……(イメージ)歌川国芳筆
しかし胤長は昨日釈放した義直や義重と異なり、積極的に謀叛を主導していた一人。さすがにどれほど泣き落とされても無罪放免とはいきません。
「和田よ。そなたたちを忍びなくは思うが、流石に……」
「甘い!鎌倉殿は甘すぎるのです!だから和田殿がつけ上がるのです!」
義時は配下に命じて胤長を縛り上げて烏帽子を奪い取り、和田一族の面前で引き回して晒し者にするという鬼畜の振る舞いに及びました。
当時の男性にとって、頭髪をさらすのはパンツが脱げてしまうくらい恥ずかしいこと。義時のしたことは、現代で言えば「全裸にして縛り上げ、街中を引きずり回す」くらいの暴挙と言えるでしょう。
「このくらい断固たる態度で臨めば、下らぬワガママも言わなくなるでしょう!」
「「「ふざけやがって!」」」
無数の和田義盛たちが、それはもう怒るまいことか。この時に義盛は報復(≒謀叛)を心に決めたと言いますが、よくこの時点で暴動が起きませんでしたね。
■胤長と引き離され……愛娘・荒鵑の死
陰。和田平太胤長配流陸奥國岩瀬郡云々。果たして胤長は3月17日に陸奥国岩瀬郡(現:福島県須賀川市)へと流されていきました。憤る和田一族に、更なる不幸が襲います。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月17日条
「父上……」
胤長には荒鵑(こうけん。鵑はホトトギスの意)という6歳になる幼い娘がおり、大好きな父と引き離された悲しみの余り、病に倒れてしまうのでした。
和田平太胤長女子〔字荒鵑。年六〕悲父遠向之餘。此間病惱。頗少其恃。而新兵衛尉朝盛其聞甚相似胤長。仍稱父歸來之由。訪到。少生聊擡頭。「荒鵑、しっかりして!」一瞬見之。遂閉眼云々。同夜火葬。母則遂素懷〔年廿七〕西谷和泉阿闍梨爲戒師云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月21日条
「父上……父上……」
もはや回復の見込みはなく、せめて嘘でもいいから父上を感じさせてあげようと、胤長に似ていると評判の和田朝盛(とももり。義盛の孫)にお芝居をさせました。
「荒鵑や、父だよ。いま帰って来たんだよ。さぁ、いい子だから、お願いだから目を開けておくれ……」
「父、う……」
わずかに目を開けた荒鵑は、そのまま息絶えてしまいます。彼女の瞳に、せめて愛しい父が映っていたことを願うばかりです。

荒鵑の火葬(イメージ)
亡骸はその夜の内に火葬され、母親は「もはや胤長も永くは生きまい(殺されるだろう)」とばかり将来を悲観。27歳の若さで出家したのでした。
和田平太胤長屋地在荏柄前。依爲御所東隣。昵近之士面々頻望申之。而今日。左衛門尉義盛属女房五條局。愁申云。自故將軍御時。一族領所収公之時。未被仰他人。彼地適有宿直祗候之便。可令拝領之歟云々。忽令達之。殊成喜悦之思云々。「……平太(胤長)の館を、下げ渡していただきたい」
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月25日条
義盛は、亡き頼朝公の時代から通例であった通り、胤長の館を求めます。罪によって没収された土地や館は、その一族に下げ渡されるのが習わしでした。
「もちろん、いいとも!」
「ありがとうございます。これで出仕も楽になります」
胤長の館は将軍御所のすぐ東隣なので便利ですが、これに横槍を入れたのが又しても義時です。
「いけません!あんな場所を与えたら、鎌倉殿の喉元に刃を突きつけさせるようなものです!」
「そなたの気持ちも解りますが、和田を侮ってはなりませんよ」
母の尼御台・政子(演:小池栄子)もこれは看過できずに口添え。結局実朝は折れて義盛への許可を撤回、胤長の館は改めて義時に与えられたのでした。
■和田一族と鎌倉殿の板挟みになり、出家した和田朝盛
相州被拝領胤長荏柄前屋地。則分給于行親。忠家之間。追出前給人。和田左衛門尉義盛代官久野谷弥次郎各所卜居也。義盛雖含欝陶。論勝劣。已如虎鼠。仍再不能申子細云々。先日相率一類。參訴胤長事之時。敢無恩許沙汰。剩面縛其身。渡一族之眼前。被下判官。稱失列參之眉目。自彼日悉止出仕畢。其後。義盛給件屋地。聊欲慰怨念之處。不事問被替。逆心弥不止而起云々。「何、小四郎のヤツが我が代官を追い出し、平太の館を奪い取っただと!」
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月2日条
鎌倉殿の命令を意のままに操る義時を前に、義盛は歯噛みするばかりです。
「どこまでもふざけやがって……もういい、我ら一族を軽んじるなら、もはや誰も出仕に及ばぬ!」
怒り心頭の義盛は、一族にボイコットを命じました。
「「「ははあ……」」」
そんな中、和田一族に和田朝盛(わだ とももり。三郎)という者がおりました。義盛の長男・和田常盛(つねもり)の嫡男です。
先代・頼家の代から側近として仕えており、和歌の才能をもって実朝からも寵愛を受けています。長老・義盛の命に背くわけにはいきませんが、主君・実朝に逆らうのも本意ではありません。
このままだと、遠からず和田と北条(が大義名分に担いでいる鎌倉殿)は衝突する。どちらにも弓を引けない朝盛は、4月15日に御所へ潜入。こっそり実朝に面会しました。

朝盛と再会を喜ぶ実朝。しかし……(イメージ)
「ご無沙汰しております」
「おぉ、三郎か……会いたかったぞ」
朝盛が別れを告げにきたことを察した実朝は、これまでの忠功に報いるため数々の地頭職を授ける下文(ここでは辞令書)を書いて授けます。
出家遁世を果たせばそんなもの無駄になるのですが、それでも何か自分に与えられるものはないかと考えたのでしょう。あるいは「地頭職を授けたのだから、俗世に留まって欲しい」というメッセージが含まれていたのかも知れません。
「ありがたき仕合せ……然らば御免」
果たして御所を退出した朝盛は館に帰ることなく出家。敬愛する実朝から一文字とって実阿(じつあ。実阿弥)と改名、そのまま京都へと向かったのでした。
朝盛出家事。郎從等走歸本所。告父祖等。此時乍驚。自閨中求出一通書状。披覽之處。書載云。叛逆之企。於今者定難被默止歟。雖然。順一族不可奉射主君。又候御方不可敵于父祖。不如入無爲。免自他苦患云々。義盛聞此事。太忿怒。已雖爲法躰。可追返之由。示付四郎左衛門尉義直。是朝盛者殊精兵也。依時軍勢之棟梁。義盛強惜之云々。仍義直揚鞭云々。「何、三郎が鎌倉を出て行っただと?」
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月16日条
朝盛の出家を聞かされた義盛は、ただちに義直を派遣して連れ戻させます。朝盛は弓の名手であり、北条との衝突が避けられない現状においては欠くべからざる戦力です。
義直相具朝盛入道。自駿河國手越驛馳歸。仍義盛遂對面。暫散欝憤云々。又乍着黒衣。參幕府。依有恩喚也。果たして朝盛は義直に連れ戻され、4月18日に鎌倉へ帰りました。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月18日条
「……面目次第もございませぬ」
「申すでない」
僧侶の黒衣に身を包んだ朝盛と再会し、実朝は遠からず戦わねばならぬ身の上を深く憂えたことでしょう。
■完全に断たれた和平の希望
和田左衛門尉義盛追放年來歸依僧〔伊勢國者。号尊道房〕。人成恠之處。外成追出之儀。内爲祈祷令參太神宮之由。有再三流言。仍世上弥物忩云々。ますます鎌倉が騒がしくなる中、義盛は4月24日に永年帰依してきたお抱えの祈祷僧・尊道房(そんどうぼう)を追放します。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月24日条
「どういう事だろう、何か不始末があったとも思えないが……」

義時調伏の祈祷(イメージ)
人々は「義時を調伏する(呪い殺す)ため、伊勢の神宮へ派遣したのではないか」などと噂しました。
霽。宮内兵衛尉公氏爲將軍家御使。向和田左衛門尉宅。是義盛有用意事之由依聞食。被尋仰其實否之故也。而公氏入彼家之侍令案内。小時。義盛爲相逢御使。自寢殿來侍。飛越造合〔無橋〕。其際烏帽子抜落于公氏之前。彼躰似斬人首。公氏以爲。此人若彰叛逆之志者。可伏誅戮之表示也。然後。公氏述將命之趣。義盛申云。右大將家御時。勵随分微功。然者抽賞頗軼涯分。而薨御之後。未歴二十年。頻懷陸沈之恨。條々愁訴。泣雖出微音。鶴望不達鷁。退耻運計也。更無謀叛企之云々。詞訖。保忠。義秀以下勇士等列座。調置兵具。仍令歸參。啓事由之間。相州參給。被召在鎌倉御家人等於御所。是義盛日來有謀叛之疑。事已决定歟。但未及着甲冑云々。晩景。又以刑部丞忠季爲御使。被遣義盛之許。可奉度世之由有其聞。殊所驚思食也。先止蜂起。退可奉待恩義裁也云々。義盛報申云。於上全不存恨。相州所爲。傍若無人之間。爲尋承子細。可發向之由。近日若輩等潜以令群議歟。義盛度々雖諌之。一切不拘。已成同心訖。此上事力不及云々。「何とか、和田と北条の戦さを避けられないものか……」
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月27日条
無益な流血を避けたい実朝は、義盛の館へ宮内兵衛尉公氏(くないひょうゑのじょう きんうじ)を使者に派遣しました。
「おぅ、来たか」
出迎えた義盛は、ふとした拍子に烏帽子が脱げてしまいます。恥ずかしいことなので慌ててかぶり直しましたが、公氏にはこれが「首が落ちるようだ。戦えば必ず滅びるであろう」と予感したとか。
「(気を取り直して)……いやぁ、俺も右大将家(頼朝公)の時代から、随分と忠義に励んだものさ。しかし右大将家が亡くなって20年もしてないのに、今じゃこんな有り様だ……まぁ、いくら喚いたって、鶴の声が天上の鷁(げき。伝承の鳥)には届かないよ。謀叛の心配なんかしなくていい。だってそんな気力もないのだから……そう鎌倉殿へお伝えしてくれ」
そう答えた義盛でしたが、傍らに控える古郡左衛門尉保忠(ふるごおり さゑもんのじょうやすただ)や義盛の三男・朝夷奈義秀(演:栄信)らは眼をギラギラさせています。もちろん、武備も万全でしょう。
「そうか……」
報告を受けた義時は御家人たちに和田謀叛の動きを周知。一方、実朝はどうしても不安なので、夜に再度使者を派遣。今度は刑部丞忠季(ぎょうぶのじょう ただすえ)です。
「どうか自暴自棄にならず、鎌倉殿を信じて欲しい」
しかし義盛の態度(もちろん内心も)は変わりません。
「だから謀叛なんて起こしやしませんよ。鎌倉殿に何の怨みがある訳じゃねぇんだから……でもまぁ、小四郎があんまり理不尽なモンだから、若い連中が『お邪魔』するかも知れねぇ。そこまではさすがに俺も止めようがねぇなぁ」
もはや交渉の余地なく、刻一刻と開戦の時が近づいていきます。
■終わりに

「小四郎め、もはや我慢の限界じゃ!」血気に逸る和田一族(イメージ)
以上、『吾妻鏡』より泉親衡の乱から和田合戦の前夜(2月15日~4月27日)までたどってきました。
胤長の流罪は仕方がないにせよ、それを過剰に辱めたばかりか、通例に逆らって館を没収するなど義時の挑発が過ぎたようです。
とかく北条贔屓と言われる『吾妻鏡』ですが、こればかりはどう見ても義時の悪どさが隠せません。
間もなく始まる和田合戦において義盛ら一族は滅び去りますが、「鎌倉殿の13人」においてトップクラスの惨劇と後味悪さが予想されます。
視聴者諸賢におかれましては、来週再来週(第40~41回放送)にかけて、しっかりと覚悟を固めておくのがおすすめです。
【完】
※参考文献:
- 石井進『日本の歴史(7) 鎌倉幕府』中央公論社、2004年11月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
- 笹間良彦『鎌倉合戦物語』雄山閣出版、2001年2月
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
- 三谷幸喜『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 完結編』NHK出版・2022年10月
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