世界史で「15世紀の三大発明は活版印刷・火薬・羅針盤」と学んだのをなんとなく覚えています。
最近は電子書籍もすっかり一般的になりましたが、その前進として活版印刷があり、これまで長い間人間の文化・文明を支えてきた技術であることは間違いありません。
活版印刷(イメージ)
日本に印刷技術が入ってきたのは6世紀頃のことで、中国から仏教とともに伝わりました。その技術を使った、日本で最も古い印刷物は『無垢浄光陀羅尼経』という経典で、奈良時代末期の天平宝字8(764)年に当時の孝謙天皇(称徳天皇)が印刷させたとされています。
『無垢浄光陀羅尼経』が印刷されたのは、国家安泰を願うためでもありましたが、同年に発生していた藤原仲麻呂の乱で戦死した兵を弔うという意味もありました。
経典は一つずつ20センチほどの小塔に収められ、なんとそれが100万セット、法隆寺や東大寺に代表される十大寺院に分置されています。今も、法隆寺には4万5千基ほどが残っているとか。

内部に無垢浄光陀羅尼経が納められた小塔(Wikipediaより)
実はこの『無垢浄光陀羅尼経』は、日本最古の印刷物であると同時に、印刷年月日がはっきりしているものとしては世界最古とも言われています。中国から伝わった技術を用いて、6年の歳月をかけて100万枚が印刷されたのでした。
とはいえ、これで日本に印刷技術がきちんと定着したわけではありません。そもそも古代日本では身分の高い人しか文字が読めないので、経典や書物を大量に印刷する必要がありませんでした。
平安時代頃の記録を見ると、印刷技術を活用して「刷る」よりも、必要に応じて原本を手書きで書き写す方が一般的だったようです。
■江戸時代の印刷技術の展開
さて、江戸時代に庶民の間でも読み書きが一般的になってくると、日本の印刷技術も大きく発展していきます。
なにせ、商いで生計を立てる町民にとって、読み書きや計算ができることは非常に重要でした。そのため町には読み書きを教える寺子屋ができ、江戸の人々の識字率はぐんと高まります。

江戸時代に寺子屋としても使われた朝霞市・金剛寺
そして娯楽としての小説作品が町民の間で大流行し、次々に本が刷られるようになりました。
また、この時代に流行した浮世絵も印刷物のひとつです。江戸では金属を使用する活版印刷ではなく、木を彫ったものに墨や顔料をつけて紙に転写する木版印刷が主流でした。
もともと江戸時代以前から、その活版印刷の技術はヨーロッパから入ってきていました。しかし、キリシタン禁制の影響もあって日本国内では広まらなかったようです。
幕末になると、再び活版印刷の技術が日の目を見るようになります。1857年にオランダからやってきた活版印刷の技師が、長崎の出島で印刷所を設置して蘭書の発行を始めたのがきっかけでした。
これに、オランダ語の通訳だった本木昌造という人物が目を付けて、研究を始めます。
■日本式の活版技術の完成
本木昌造は、中国の印刷所の技師であるウィリアム・ギャンブルという人物から、活版印刷で行われる活字鋳造の方法や組版の講習を受けて活版製造所を設立しました。

本木昌造の肖像写真(Wikipediaより)
そこで、今までなかったひらがなの活字を開発すると、活版印刷は日本にたちまち広まっていきます。
活版印刷の技術は、最初はオランダ語や英語、フランス語などの外国語の書物の翻訳や、教材の出版に使用されました。そしてすぐに新聞や雑誌など、多くの媒体が活版印刷で発行されるようになります。
さらに本木の門弟だった平野富二と谷口黙次がそれぞれ東京の築地活版製造所や大阪の谷口印刷所を設立しました。
築地活版製造所が長崎の活版製造所から引き継いだ書体は築地体とよばれ、現在私たちが使用している印刷の文字のもとになっています。
参考資料
比較jp
印刷技術の歴史~日本の印刷技術の変遷~
株式会社ダブル
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan