天網恢恢疎にして漏らさず、しっかりとその報いを受けることになります。
今回は『太平記』より鎌倉時代末期、幕府滅亡に際して北条高時(ほうじょう たかとき。第14代執権)の息子を託された五大院宗繁(ごだいいん むねしげ)を紹介。果たして彼はどんな末路を辿るのでしょうか。
■恩賞に目が眩み……
時は元弘3年(1333年)5月。百数十年にわたって武士たちを統治していた鎌倉幕府がいよいよ滅び去ろうとしていました(元弘の乱)。
「……右衛門太郎(宗繁)はおるか!」
「は、ここに」
「そなたを永年の忠臣と見込んで頼みがある」
「何なりと」
嫡男・邦時を託す高時(イメージ)歌川豊斎「新歌舞伎十八番の内 高時」
「我らはここに相果てるが、太郎(高時の嫡男・相模太郎こと北条邦時)に望みを託したい。必ずや守り抜き、いつか機あらば捲土重来を果たせ」
「御意。命に代えてもお守り申す」
邦時は当時9歳(正中2・1325年生まれ)。母親は宗繁の妹・常葉前(ときはのまえ)。なので宗繁は邦時の伯父に当たります。
「さぁ太郎よ。伯父上にご挨拶いたせ」
「右衛門の伯父上、どうかよろしくお願い申し上げます」
「太郎君(ぎみ)よ。
かくして出発した宗繁と邦時。しかし残党狩りの手は厳しく、なかなか鎌倉を脱出できません。
(これは困った……このまま太郎を抱えておっては埒が明かぬ。むしろこやつを当局に突き出すことで忠誠を示し、恩賞に与かった方がよいのではないか)
そこで宗繁は邦時に対し、別行動を持ちかけました。
「太郎君よ、今や鎌倉は船田入道(ふなだにゅうどう。船田義昌)の追手が厳しく、まとまって行動するのは危険が大きい。そこで別行動をとり、それがしが連中を引きつけている間に伊豆山権現へ向かって下され」

迫りくる追手(イメージ)
「右衛門の伯父上は大丈夫なのですか?」
「お任せ下され。太郎君を守るためならばこの伯父は身命など惜しみませぬ」
なんて調子のいいことを言って信用させ、邦時を見送るや否や宗繁は船田義昌の陣へ急行。「北条の遺児が伊豆山へ向かっている」と密告したのです。
「どうか所領を安堵していただけるよう、お口添えを……」
(この裏切り者めが!)
内心では唾棄しつつも船田入道は急ぎ軍勢を派遣し、あわれ邦時は相模川で生け捕られました。
本当なら張輿(はりごし。周囲をむしろ等で張った簡素な輿)にでも乗せるところですが、なにぶん急なことで用意もなく、邦時は馬の鞍に縛りつけられたと言います。
「あの子が北条の御曹司か。おいたわしや……」
あまりにもむごい仕打ちに、鎌倉の人々は涙で袖を絞らぬ者はなかったとか。また幼いからせめて命だけはと願う声もありましたが、逆賊の息子であれば捨て置けず、5月29日に斬首されてしまいました。
父・高時の死からわずか7日後のこと。人々が悲しむ中、宗繁だけは恩賞の心配をしていたようです。
「あの、それがしの恩賞は……」
しかし船田入道から事の次第を聞いた新田義貞(にった よしさだ)は「永年にわたる恩義を忘れ、恩賞に目が眩んで主君の遺児を売り飛ばすとは不忠も甚だしい!」として、宗繁の処刑を決定しました。

宗繁を討ち取るよう命じる新田義貞(イメージ)香朝樓「新田義貞 市川團十郎」
「何だと、せっかく味方してやったのに!」
地獄耳で情報を聞きつけた宗繁はすぐさま鎌倉を脱出。そのまま逃げのびようとしましたが、行く先々で邦時を裏切ったことを非難され、追い出されてしまいます。
「裏切り者!人でなし!出て行け!」
「お前に食わせる飯などあるもんか!」
どこまで行ってもどこまで逃げても、人々は邦時を売り飛ばした悪行をしっており、誰一人として助けてくれる者はありません。
そしてついには行き倒れ、餓死してしまったということです。
■終わりに
以上、『太平記』巻十一「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事(ごだいいん うゑもんむねしげ、さがみのたろうをすかす≒だますこと)」のエピソードを紹介しました。
恩賞に目が眩んで主君を裏切ったものの、その不忠により結局は非業の末路をたどった事例は枚挙にいとまがありません。
恥辱に命を永らえるなら、忠節を貫いて名誉をまっとうした方がよほどよい。今回の件はそんな教訓を残しているようです。
※参考文献:
- 兵藤裕己 校註『太平記 一』岩波文庫、2014年4月
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