その人物は後深草院二条。
今回は、4人の男性と肉体関係を結んだ後深草院二条の男性遍歴をご紹介します。
後深草院二条(イメージ)
■新枕で感じた、ときめきが忘れられなかった後深草上皇

後深草上皇/Wikipediaより
二条は、正嘉2年(1258年)に源雅忠と大納言典侍との間に生まれます。特に、母の大納言典侍は後深草上皇に性行為の手ほどきを教えたこともあり、後深草上皇から気にかけられていました。
しかし、大納言典侍は二条を産んだ翌年に死去。大納言典侍のことを忘れられなかった後深草上皇は、二条を自身の御所に迎えました。
そして、二条が成人として見られる14歳になった文永9年(1272)頃、後深草上皇は二条を口説きます。二条にとって後深草上皇は、幼き頃から共に過ごした父親のような存在。急な求愛に驚いた二条は、拒否してしまいます。
やがて、心を決めた二条は数日後に後深草上皇と肉体関係を結びました。その情事で衣服が破けたとの記録が残っており、強引なセックスだったことがうかがえます。
■エリート官僚の西園寺実兼も狙っていた?!

西園寺実兼(イメージ)
二条が後深草上皇の子を孕んだ後、今後は西園寺実兼が口説きにかかります。
実兼は二条が14歳になった頃に、愛をつづった手紙と豪華な衣装を送りました。そして、二条は実兼の愛に応えるように、後深草上皇の子を産んだ後に蜜月の関係になります。
後深草上皇は、この関係を知っていましたが、咎めることはありませんでした。その結果、実兼の子も妊娠しました。2人の子は西園寺瑛子とされています。
■性助入道親王や亀山天皇までも

亀山天皇/Wikipediaより
二条は後深草上皇の異母弟に当たる性助入道親王(しょうじょにゅうどうしんのう)からも好意を持たれていました。しかし、二条は性助入道親王に興味を持ちませんでした。
それでも、約束を破らないことを神仏に誓った起請文や今までの修行を悪道に使うとまで言い始め、二条にゆさぶりをかけます。
ついには、性助入道親王の怖いほどの想いに折れ、肉体関係を結びました。そして、性助入道親王の子を孕んだ後に亀山天皇からも求愛を受けます。二条は亀山天皇からの誘いを断らず、肉体関係を結びました。
■西行に憧れ諸国の旅へ
多くの男性と関係を持った二条は、26歳の時に後深草上皇の中宮・西園寺公子によって御所を後にします。その後は、後深草上皇の母親・西園寺姞子(さいおんじ-きつし)の女房になるも、出家。
西行を参考に諸国の旅を始めており、ここでも男性を追いかけていることがわかります。
ここまで色々な人に言い寄られる二条を見ていると、正直羨ましいと思ってしまいます。それほど、二条には女性としての魅力や愛嬌が備わっていたと考えられますね。
※参考文献:末國善己『夜の日本史』辰巳出版、2013年
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