長く続いた江戸幕府。そのトップに立つ将軍がいた江戸城には、多くの女性たちが働いていました。


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大奥は男子禁止の女性たちの華やかな世界……というイメージを持っている方も多いかもしれません。しかし、そんな大奥には厳しいルールがありました。

今回は、そんな「大奥法度」について詳しくご紹介したいと思います。

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■大奥とは?簡単に概要を振り返ろう

大奥は、江戸城本丸の奥にあり、将軍の妻や子ども、また奥女中たちの住むところでした。

最初に女性たちだけの空間を作ったのは、2代将軍・徳川秀忠の妻・お江与(えよ)の方でした。そして、お世継ぎが途切れないようにと女性たちが集められたのは、3代将軍・徳川家光のころでした。

女性よりも男性に興味があったとされる家光を心配し、乳母の春日局が女性たちを集めたのがきっかけです。

■「大奥法度」はいつ、だれが定めた?

「大奥法度」が最初に定められたのは、元和4年(1618年)に、2代将軍・徳川秀忠によるものでした。このときには、「男性の立ち入り禁止」や「夜6時以降の奥女中の出入り禁止」などが定められました。

また、将軍家以外で「大奥」という名前を使うことを禁止し、他の大名家では「奥向き」という名称が使われました。そのあと、時代とともに「大奥法度」の内容は加筆されていきました。

■追加されていった厳しいルール

江戸時代の大奥のルールを定めた「大奥法度」とは?華やかな世界の裏には厳しいルールが


「大奥法度」は時代とともにその内容が追加されていきました。


たとえば、1623年、1670年には「大奥の内部事情を外部に絶対にもらしてはならない」ことが追加されました。また、1721年には、「風紀の乱れを取り締まるために質素倹約を奨励する」ことが加筆されています。

特に、1721年に8代将軍・徳川吉宗が定めた「女中条目」の内容は大奥法度の完成形とも言われています。そのなかでは、たとえば、手紙のやりとりは「祖父母、父母、兄弟姉妹、叔父叔母、甥姪、子、孫に限る」、また、宿下がり(休暇をもらって親元に帰ること)の際も、これらの親族としか面会してはならない、などの厳しいルールが定められました。

そのほか、着るものや持つもの、振舞いは身分相応にすることや、御紋(三つ葉葵)付きの道具類は私用で貸し出してはいけないことなどのルールがありました。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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