■明応の政変というクーデター

これまでは、戦国時代は応仁の乱が発端で始まったと教科書で教えられてきましたが、最近は歴史研究が進んだことで、応仁の乱よりも先に起きた享徳の乱や永享の乱など、他の地点に乱世のスタート地点を見る研究者も増えています。

他にも、応仁の乱が始まった後の明応の政変こそが乱世の始期だとする見方もあります。
では、この明応の政変とは何だったのでしょうか。

応仁の乱が始まった後の1473年、九代将軍となった足利義尚は、失墜した室町幕府の権威回復に尽力します。しかし、近江守護だった六角高頼の征討のために遠征していたさなか、陣中で急逝しました。25歳という若さでした。

で、その後を継いだのが、義尚の従弟である足利義材(よしき)です。彼は足利義視の子で、のちの足利義稙(よしたね)です。

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足利義材/足利義稙(Wikipediaより)

将軍就任後、義材は河内へ出兵し、畠山義豊の討伐をこ試みました。しかし、この時に従軍しなかったのが管領だった細川政元です。彼は細川勝元の息子にあたり、もともと義材が将軍になることに反対していました。

彼がそのかわりに据えようとしていたのは、堀越公方だった足利政知の子である足利義澄だったのです。

この、政元の動向が、その後のクーデーター明応の政変につながっていきます。

■政争に敗れて…

新将軍の足利義材とは距離を置いていた細川政元ですが、彼はその後、義材の味方である畠山政長との政争に敗北しました。


「下剋上」「戦国時代」もここから始まった!?乱世の発端になった「明応の政変」とは何か【前編】


細川政元(Wikipediaより)

このため、政元は一時的にではありますが、政治の表舞台から離れることになります。さらに幕政は畠山政長に牛耳られる形となり、ライバルである細川氏は将来が危ぶまれる立場となっていきました。

もともと足利義材は、将軍に就任したばかりの頃は、細川政元を頼っていたと言われています。しかし義材はだんだん彼以外の有力者を頼むようになり、その有力者の一人は細川義春でした。ご存じの通り、義春はその後、幕府内でも重用されるようになります。

こうした事柄が、政元の危機感を募らせたのでしょう。彼はついにクーデターを起こすことを決め、かねてより将軍候補として推していた足利義澄を将軍に据えるべく挙兵します。

幕政においては孤立気味だったものの、彼には味方がいました。日野富子や、前政所執事である伊勢貞宗を説得して赤松正則の協力も得られることになったのです。

【後編】では、政元が起こした混乱とその結末について解説します。

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参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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