戦国時代、諸大名から「海道一の弓取り(東海道で一番の戦上手)」と恐れられた徳川家康(演:松本潤)。かつて同じく賞賛された今川義元(演:野村萬斎)をはるかに越えて天下を獲ったことは現代でも広く知られています。


毘沙門天の化身も認めた!徳川家康の「海道一の弓取り」ぶり。『...の画像はこちら >>


海道一の弓取り・今川義元。ここでは「街道一の大身」とされている。歌川国芳「太平記英雄傳 稲川治部太夫源義基」

ところで、家康を初めて「海道一の弓取り」と呼んだのは誰なのでしょうか。今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』をひもとき、調べてみました。

NHK大河ドラマ「どうする家康」でも、この場面が出てくるでしょうか。

■毘沙門天の化身も認めた、家康の戦上手

……此頃越後国に上杉謙信入道とて。軍略兵法孫呉に彷彿たるの聞え高き古つわものあり。今川氏真が謀にてはじめて音信をかよはしたまふ。入道悦なゝめならず。当時海道第一の弓取と世にきこえたる徳川殿の好通を得るこそ。謙信が身の悦これに過るはなけれとて。左近忠次まで書状を進らせ謝しけるが。
是より御音間絶せず……

※『東照宮御実紀』巻二 元亀元年-同三年「家康通好于謙信」

【意訳】このころ(元亀元・1570年ごろ)、越後国(佐渡島を除く新潟県)に上杉謙信(うえすぎ けんしん)入道という歴戦の勇者がおり、その軍略兵法は呉(古代中国の一王朝。紀元前6~同5世紀)の孫武(そん ぶ。孫子)を髣髴とさせる戦上手であった。

今川氏真の件で初めて交流を始めたところ、謙信は「海道一の弓取りと天下に名をはせた徳川殿とお近づきになれるとは、これ以上の喜びはない」と大喜び。

家康の家臣・松井忠次(まつい ただつぐ。松平康親)にあてて礼状を送り、以来交流が絶えることはなかった。

(家康への書状をその家臣に送ることでへりくだり、家康に敬意を示している)

毘沙門天の化身も認めた!徳川家康の「海道一の弓取り」ぶり。『徳川実紀』を読んでみた【どうする家康】


月岡芳年「芳年武者无類 弾正少弼上杉謙信入道輝虎」

ということで、竹千代の誕生から『徳川実紀』をずっと読んできたところ、家康を初めて「海道一の弓取り」と呼んだのはあの軍神(自称・毘沙門天の化身)上杉謙信だったようです。

ただし、文中で「当時海道第一の弓取と世にきこえたる徳川殿」と言及していることから、すでに人々が家康の戦上手を噂していたことが分かります。

17歳で初陣(寺部城の合戦)を飾ってこの方、桶狭間(大高城の兵粮入れ、丸根砦・鷲津砦の攻略など)を機に三河一国の主に成り上がった家康。

更には三河一向一揆を鎮圧して武田信玄(演:阿部寛)と鎬を削り、盟友・織田信長(演:岡田准一)の危機をたびたび救う(金ヶ崎の退口、姉川合戦)など、而立(じりつ。30歳)を前に早くも名将としての評価を確立していたそうです。

甲斐・信濃の両国(山梨県・長野県)を統治している武田信玄を南北から挟み撃ちにしたい目的(遠交近攻)もあってか、徳川・上杉両家の連携はその後末永く続いたのでした。


■終わりに

毘沙門天の化身も認めた!徳川家康の「海道一の弓取り」ぶり。『徳川実紀』を読んでみた【どうする家康】


歌川芳虎「三河英勇傳 従一位右大臣 征夷大将軍源家康公」

さて、そうなると面白くないのが武田信玄。北に上杉、南に徳川……それじゃあ南から行こうと再び魔手を伸ばすことに。

……三年閏三月金谷大井川辺御巡視ありしに。此頃信玄入道は当家謙信入道と御合体ありといふを聞大に患ひ。しからばはやく   徳川氏を除き後をやすくせんと例の詐謀を案じ出し……

※『東照宮御実紀』巻二 元亀元年-同三年「家康絶信玄」

【意訳】元亀3年(1572年)閏3月、金谷・大井川のあたりを家康が巡視していた。このころ、信玄は徳川と謙信の交流を聞いてこれを危険視、早い内に徳川を滅ぼして後顧の憂いを断とうと例の謀を繰り出すことに……。

「例の詐謀」とは前に家康と共同で今川氏真を滅ぼし、遠江(徳川)と駿河(武田)をそれぞれ分け合っておきながら、後から欲を出して遠江への進出(≒家康の暗殺)を企んだ一件。

いよいよ打倒徳川に本腰を上げる「甲斐の虎」武田信玄。これが間もなく三方ヶ原の合戦につながります。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では家康と謙信の関係、そして松本潤と阿部寛の対決がどのように描かれるのか、楽しみですね!

※参考文献:

  • 経済雑誌社『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 小和田哲男『詳細図説家康記』新人物往来社、2010年3月
  • 二木謙一『徳川家康』ちくま新書、1998年1月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ