渡辺崋山(諸説あり)「荒歳流民救恤図」国立国会図書館蔵
そのときに発生したのが今回ご紹介する「天明の打ちこわし」です。「天明の打ちこわし」が起きた背景やその後の社会への影響などを紹介します。
■悪天候、自然災害が重なり、大飢饉へ

画像 天明飢饉之図(出典元 福島県教育委員会)
江戸時代には、「江戸三大飢饉(ききん)」と呼ばれる飢饉が発生しました。天明の大飢饉、享保の大飢饉、そして天保の大飢饉の3つです。今回ご紹介する「天明の打ちこわし」は、天明の大飢饉がきっかけとなり発生しました。
天明の大飢饉は三大飢饉のなかでも最大の被害となり、全国規模で影響を受けたとされています。
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そもそも、天明の大飢饉はさまざまなことがきっかけで発生しました。天明2年(1782年)から続いた悪天候により、農作物が育たなかったり、米が獲れなかったりしました。
また、天明3年(1783年)には山の噴火が起こり、火山灰で農地が埋まってしまいました。ひどい飢饉が発生します。追い打ちをかけるように、赤痢のような疫病も流行ったと言われています。
■どんどん米の値段が上がる
飢饉に加え、米屋が出し惜しみをして値段をつりあげるなどし、米の値段がどんどん上がっていき、庶民が米を手に入れにくくなります。
た、当時の老中・田沼意次も財政維持を優先的に進めたり、藩も自分たちの分を守るために「津留(つどめ)」という物資を流出させない策をとったりと、政治面の影響もありました。
■打ちこわし発生、しかし
このような状況のなか、江戸や大坂といった都市を中心に、30か所ほどで打ちこわしが起こりました。打ちこわしは暴動のひとつで、米屋、質屋、酒屋などの富豪を襲撃するものですが、一方で興味深い記録も残っています。
それは、天明の打ちこわしでは、実際には盗みはせず、代金を払って米を持って帰ったというものです。
さらに、死傷者はいなかったとも言われています。建物の被害はあっても、人的被害はなかったことから、幕府によって重い罰に処せられる人もいなかったようです。
■天明の打ちこわし以降の社会
天明の打ちこわしが発生したあとは、老中が田沼意次から松平定信へと変わっていきます。商人を重視した田沼と異なり、松平定信は農民を重視。幕府の財政を立て直すため、「寛政の改革」を実行していきました。
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いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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