彼は元亀元年(1570)又は天正10年(1582)に起きた本能寺の変の前に再び家康の元に戻るのですが、その間は一体何していたのでしょうか?
今回は出奔から再仕官までに、正信が辿った放浪の旅を紹介したいと思います。
本多正信/Wikipediaより
■一揆鎮圧後は松永久秀の元へ

本多正信の弟・本多正重/Wikipediaより
三河一向一揆では、大河ドラマ『どうする家康』を見ていた方はご存知かと思いますが、一揆勢の軍師として一揆に参加していました。
鎮圧後は、同じく一揆勢だった渡辺守綱や夏目広次は、家康に降伏。その後は家康の家臣として忠誠を尽くしました。
しかし、本多正信だけは家康に降伏せず、妻と子(本多正純)を残して三河国を去り、大和国(現在の奈良県)にいる松永久秀に仕官しました。反対に、正信と共に一揆勢だった弟の本多正重は、一揆鎮圧後に家康の元に戻っています。
ちなみに、妻子は大久保忠世の元に保護されました。
■加賀国へ流浪

松永久秀/Wikipediaより
正信は久秀からは「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」との評価を受けました。
久秀は正信の非凡な才能を見抜いていたことがうかがえます。
しかし、永禄8年(1565)の永禄の変で足利義輝が暗殺されると、久秀の元を去りました。その後は、加賀国(現在の石川県南部)へ渡ったと言われています。
■実は織田信長と戦った!?

織田信長/Wikipediaより
加賀国で正信は、加賀一向一揆の将の1人として迎えられます。
しかし、正信は加賀一向一揆と共に織田信長と戦ったと言われています。
■再び家康の元へ

大久保忠世/Wikipediaより
ほどなくして加賀国を後にすると、大久保忠世のとりなしで家康の元に帰参。40石で召し抱えられ、初めは鷹匠として仕えました。
一度離れた徳川家に再び戻ってきたともあって、正信の扱いは酷かったようです。
しかし、天正10年(1582)に起きた天正壬午の乱において、家康が旧武田領を手に入れた際にあることをして、家康からの信頼を獲得します。それは旧武田領を統治しやすいように、武田家遺臣を徳川家に取り込んだことでした。
それ以降家康から重宝され、初期の江戸幕府の政治を支える人材として、家康にとって無くてはならない「友」となるのでした。
■最後に
三河武士という武闘派集団の中で再仕官した後に頭角を出せたのは、正信が智謀に長けていたからだと考えられます。また、諸国を放浪して得た知見も正信の智謀に磨きをかけたと思われます。
正信の智謀を腐らせず、再仕官のとりなしをした忠世の見る目があったとも言えますね。
時代が平和になるにつれ、武勇は必要不要になるのは必然。
※参考文献
中村整史朗『本多正信-家康に天下をとらせた男』PHP文庫、1995年
すずき孔『マンガで読む戦国の徳川武将列伝』戎光祥出版、2022年
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