戦国時代の三大遅刻と言えば諸説あるものの、徳川秀忠(とくがわ ひでただ)の遅参を挙げない方はいないのではないでしょうか。
時は慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦に間に合わず、父・徳川家康(いえやす)は大激怒。
関ヶ原の勇士らをねぎらう家康。秀忠は遅参により不参加。月岡芳年筆
あわや勘当されそうになったところ、とりなしたのが徳川きっての謀将・本多正信(ほんだ まさのぶ)とのこと。
そこで今回は江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、正信が家康を諫めたエピソードを紹介したいと思います。
■佐抛大明神も御照覧候へ。汝が顔を二度……
「この大たわけがっ!」
秀忠は家康率いる本軍とは別の東山道から攻め上っていたところ、真田安房守こと真田昌幸(さなだ まさゆき)が守る上田城(長野県上田市)を攻撃しました。
「こんな小城、一息にもみ潰してくれるわ!」
……と思ったら意外や意外。小勢ながらも老練な真田は巧みな駆け引きで秀忠の大軍を翻弄。そのまま無視することも出来ない内に日を費やし、とうとう関ヶ原の決戦に間に合わなかったという次第です。
「誠に申し訳ございませぬ!」
「いいや許さん!佐抛大明神(さなぎだいみょうじん※)に誓って、そなたの顔など二度と……」
※大和国吉野郡(奈良県吉野郡吉野町吉野山)に鎮座、御祭神は怪力で知られる天之手力男神(アメノタヂカラオノカミ)。
そこまで言った家康の口へ、とっさに手を押し当てたのが本多正信。
家康を諫める正信(イメージ)
「暫く!その先は言わせませぬぞ」
「ぶはっ……佐渡、何をするか!」
「その御短気で三郎(徳川信康)様を失われたのに、まだ懲りませぬか!」
ついカッとなって勢いで物事を決めた結果、大事な嫡男であった徳川信康(のぶやす)をみすみす切腹させてしまった苦い思い出が脳裏をよぎります。
「……あの時、織田殿の言われるままに死なせてしまったが、よく調べるなり弁解するなり手はあったやも知れんなぁ」
「左様。いっときの感情で取り返しのつかぬことをなされては、必ずや後で悔やまれましょうぞ」
「……相分かった」
かくして秀忠は遅参の罪を赦され、ぶじ徳川の家督を受け継いだのでした。
■終わりに
徳川秀忠。楊洲周延筆
ただ一度の失態ですぐに見捨てず、受け入れたからこそ永く続いた徳川の世。家康の短慮を諫めた本多正信の功績は、実に大きなものと言えるでしょう。
※参考文献:
時は慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦に間に合わず、父・徳川家康(いえやす)は大激怒。
戦さに勝ったからよいものの、もし敗れでもしていたら、日本の歴史はどれほど変わっていたでしょうか。
関ヶ原の勇士らをねぎらう家康。秀忠は遅参により不参加。月岡芳年筆
あわや勘当されそうになったところ、とりなしたのが徳川きっての謀将・本多正信(ほんだ まさのぶ)とのこと。
そこで今回は江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、正信が家康を諫めたエピソードを紹介したいと思います。
■佐抛大明神も御照覧候へ。汝が顔を二度……
「この大たわけがっ!」
秀忠は家康率いる本軍とは別の東山道から攻め上っていたところ、真田安房守こと真田昌幸(さなだ まさゆき)が守る上田城(長野県上田市)を攻撃しました。
「こんな小城、一息にもみ潰してくれるわ!」
……と思ったら意外や意外。小勢ながらも老練な真田は巧みな駆け引きで秀忠の大軍を翻弄。そのまま無視することも出来ない内に日を費やし、とうとう関ヶ原の決戦に間に合わなかったという次第です。
「誠に申し訳ございませぬ!」
「いいや許さん!佐抛大明神(さなぎだいみょうじん※)に誓って、そなたの顔など二度と……」
※大和国吉野郡(奈良県吉野郡吉野町吉野山)に鎮座、御祭神は怪力で知られる天之手力男神(アメノタヂカラオノカミ)。
佐抛は「さ(強調)投ぎ=放り投げ」に通じ、家康は「秀忠を放り投げる≒絶縁」しようとしていたのでしょう。
そこまで言った家康の口へ、とっさに手を押し当てたのが本多正信。

家康を諫める正信(イメージ)
「暫く!その先は言わせませぬぞ」
「ぶはっ……佐渡、何をするか!」
「その御短気で三郎(徳川信康)様を失われたのに、まだ懲りませぬか!」
ついカッとなって勢いで物事を決めた結果、大事な嫡男であった徳川信康(のぶやす)をみすみす切腹させてしまった苦い思い出が脳裏をよぎります。
「……あの時、織田殿の言われるままに死なせてしまったが、よく調べるなり弁解するなり手はあったやも知れんなぁ」
「左様。いっときの感情で取り返しのつかぬことをなされては、必ずや後で悔やまれましょうぞ」
「……相分かった」
かくして秀忠は遅参の罪を赦され、ぶじ徳川の家督を受け継いだのでした。
■終わりに

徳川秀忠。楊洲周延筆
七四 関ヶ原御一戦の時、秀忠公木曽路御登り候處、真田安房守支へ申すに付、御遅参なされ候。家康公御立腹にて、「佐抛大明神も御照覧候へ。汝が顔を二度……」と仰せられ候時、本多佐渡守御口に手を當て、「先はいはせ申さず候。その御短気故三郎殿御失ひ、未だ御懲りなされず候や。」と申され候に付て、その儘御座を御立ちなされ候由。秀忠公は関ヶ原御遅参、御一生御後悔の由。佐渡守殿老後には、御前にて安座頭巾御免なされ候由。この功績により、秀忠が江戸幕府の第2代将軍となった時、正信は将軍の前でも安座(あぐらで座る)と頭巾(通常、かぶりものは脱ぐ)を許されたと言います。
※『葉隠聞書』第十巻より
ただ一度の失態ですぐに見捨てず、受け入れたからこそ永く続いた徳川の世。家康の短慮を諫めた本多正信の功績は、実に大きなものと言えるでしょう。
※参考文献:
- 古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、1941年9月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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