【前編】では、1560年の桶狭間の戦いが起きた経緯と、今川義元の目的・兵力がはっきりせず謎のままであるという点を説明しました。
「桶狭間の戦い」はなぜ起きた?正確な場所はどこ?有名なのに実は不明点だらけ…【前編】
次に、桶狭間の戦いにおける謎として、そもそも桶狭間とはどこなのか? というのがあります。
従来の説は、織田信長は善照寺砦から太子ケ根を回って、桶狭間で今川義元と激突したというものでした。一方、最近は太子ケ根ではなく中島砦を迂回して手越川に沿うなどして行ったのではないか……とも言われています。
織田信長と今川義元の銅像(名古屋市の桶狭間古戦場公園)
ところが「そもそも」の問題として、桶狭間とは一体どこなのかがはっきりしていません。
江戸時代初期に小瀬甫庵によって書かれた『信長記』では、そこは窪地である田楽狭間という場所だったと記されています。現在「桶狭間古戦場」を名乗る場所として、名古屋市にある田楽坪と明石市の田楽狭間の二つがあり、いずれもこの『信長記』の記録がもとになっているようです。
明石市の「桶狭間古戦場伝説地」
一方、信長の側近である太田牛一が記した『信長公記』では、今川義元との決戦の地となったのは「おけはざま山」という場所だったとされており、現在では『信長記』よりもこの『信長公記』の方が信憑性が高いと考えられています。
が、それではこの「おけはざま山」はどこの山なのかということになると、これも諸説ありはっきりしません。
■奇襲か、偶然の戦いだったのか
そして、桶狭間の戦いにまつわる最後の謎として、信長による攻撃は果たして奇襲だったのか、正面突破だったのかというのがあります。
従来のイメージでは、数の上で優勢だった今川軍が、悪天候のため桶狭間という窪地で休憩していたところ、その隙をついて信長が奇襲をしかけた……という感じです。
しかし現実には、信長が今川軍の本陣の位置を察知していたというのはちょっと考えられません。そこで、桶狭間の戦いは偶然に発生した偶発的な戦いだったのではないかという説もあります。ちなみに先述の『信長公記』では、ここで信長は全力で攻撃を仕掛けて勝利を収めたとあります。
清州公園内の織田信長像
このように、さまざまな謎が残る桶狭間の戦いですが、なんにせよこの戦いによって今川家は優秀な当主を失い、この時を境に急激に衰退の一途をたどることになります。
一方の信長はと言えば、今川氏の支配下から抜け出すことができた松平元康と同盟を結び、尾張統一を経て美濃侵攻へと向かっていくのです。
この松平元康が、のちの徳川家康であることは言うまでもありません。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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