昔はとかく女性の地位が低く抑えられ、自分で人生を決められなかったように思われがち。しかし彼女たちも時により、自分の意思と覚悟で人生を決める事例が間々ありました。


そこで今回は江戸時代の武士道エピソード集『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、とある武家女性のエピソードを紹介。果たして彼女は、どんな決断を下したのでしょうか。

■窮地の夫を見捨てては、女の道が立ちませぬ

今は昔し、武雄に立野甚五太夫(たての じんごだゆう)という武士がおり、河原勘左衛門(かわはら かんざゑもん)の妹を娶っておりました。

二人の娘はやがて中村平六兵衛(なかむら へいろくひょうゑ)に嫁ぎ、幸せに暮らしていたようですが、後にこの平六兵衛が主君に対して不忠の罪(詳細は不詳)に問われます。

これを知った勘左衛門は、不忠義者と縁続きなどかなわぬ……と妹を離縁させて河原家に連れ戻し、姪に当たる甚五太夫の娘も引き取ろうと声をかけました。

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相関図(葉隠11・117)

「平六兵衛父子は不忠の罪ゆえ、こたび流刑と相成った。しかしそなたまで巻き添えを食う事はない。姪を不憫に思う伯父の意を酌み、ただちに離縁して河原家へ参れ」

しかし甚五太夫の娘は毅然とこれを断ります。その言い分は、



「私は女ゆえ、主君に奉公して忠義を尽くすこと叶いませぬ。それが不忠の夫と父を捨てたところで、それが何の忠義になるのでしょうか。どこへ流罪になろうと付き従い、共に飢え死にするよりございませぬ。
ひとたび契りを交わした相手を、いっときの不利益に見捨てるようでは女の道が立たぬというもの。まして父上は母上に捨てられ、これより流浪の身となるのですから、せめて私だけでもお支えしとう存じます。伯父上のお心づかいのみ、ありがたく頂戴いたします」

との事。果たして甚五太夫と平六兵衛の両名は流罪となり、娘もこれに従ったのでした。

■終わりに

一一七 武雄の立野甚五太夫は、河原勘左衛門妹聟にて候。甚五太夫娘は、中村平六兵衛嫁にて候。先年出入の節勘左衛門より甚五太夫女房を取り返し、平六兵衛嫁に申し遣はし候は、「平六兵衛父子不忠に候間、見舞分にて此方へ参り候様、介抱仕るべき」旨に候。その返答に、「女として主人に忠を盡し候事は相叶はず、不忠の人を捨て、今その元へ参り候とて、何程の忠節これあるべきや。どなたへぞ参り候て、食を焼き申すより外あるまじく候。一度男を頼み舅と頼み候人を、今身上危く候とて見捨て候ては、女の道立ち申さず候。殊更親父甚五太夫女房に捨てられ、やがて流浪の身分を、女ながらも、せめて我ら介抱仕らず候ては、誰を頼り申さるべきや。某男子にて候へば存方(本ニ旨)も御座候。
各の御分別を借り申すまじく候。」と申し切り、終に参らず候。追附甚五太夫、平六兵衛浪人、配所にて、嫁も同然に浪々の體にて罷り在り候由。儉中咄。

※『葉隠聞書』第十一より

……と儉中(けんちゅう)が語ったそうで、人々は彼女の貞節を褒めたたえたと言います。

窮地の夫を見捨てるなど…武士道エピソード集『葉隠』が伝える「女の道」とは


男には男の、女には女の道がある(イメージ)

何があろうと夫を支える。それこそ女の生きる道……かつて武家の女性たちは、そのような覚悟を決めて嫁いだのでした。

ただし夫も妻の貞節に驕ることなく、生涯かけて伴侶を愛し、守り抜く覚悟が求められたことは言うまでもありません。

果たして流された立野甚五太夫と中村平六兵衛がどのような末路をたどったのかは定かでないものの、彼女の心意気に恥じないものであったと信じたいところです。

※参考文献:

  • 古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、1941年9月

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