衝撃の展開に、テレビの前で思わず「えっ!?」と声に出してしまいました。
大河ドラマ「どうする家康」公式ページより
皆さんの中にも同じようになった方もいるかと思います。それに加えて「望月千代って何者?」と疑問を覚えた方もいるはず。
実は望月千代はオリジナルキャラクターで、実際にいた望月千代女(もちづき-ちよめ)がモデルとされています。
そこで今回は、千代こと望月千代のモデルになったとされる望月千代女について解説します。
■歩き巫女とは?

望月千代女の解説の前に歩き巫女の解説をしたいと思います。
歩き巫女は、特定の神社に所属せずに全国各地で祈祷や託宣を行って生計を立てていた巫女のことを指します。歩き巫女の中には、旅芸人や遊女を兼ねる者もいました。
他にも、神事で使われる梓の木を用いた梓弓を駆使した口寄せ後、託宣や呪術を行った梓巫女。熊野権現の布教のため、絵巻物の内容を解き語った熊野比丘尼も知られています。
そして、諏訪信仰のために全国を歩いた巫女は信濃巫女と呼ばれていました。日本各地を制限なく歩いて回れることから、武田信玄は信濃巫女を情報収集の手段として用います。
この巫女たちを訓練したのが望月千代女でした。
■望月千代女について

武田信玄/Wikipediaより
望月千代女は、武田家家臣の望月盛時の妻として知られています。
盛時は永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いで、上杉軍の簗田外記との戦った末に戦死。未亡人となった千代女は、信玄から甲斐信濃二国の神女頭に任命されました。
そして、信濃国にある祢津村で訓練場を建築し、歩き巫女の育成を始めます。
各地から集められた8歳から16歳の美しい少女をスカウトし、歩き巫女として育成。3年から5年程度で一人前の歩き巫女となり、情報収集や諜報活動に向かわせます。
時には、色気を使った情報収集を行ったとされていますが、定かではありません。
■望月千代女は実は忍者だった!?

千代女のいる望月家は甲賀五十三家と呼ばれる甲賀忍者の家の出。そのため、千代女はくノ一と言われているだけでなく、歩き巫女たちもくノ一だったのではないかと言われています。
■望月千代の暗躍やいかに!
歩き巫女として情報収集に回った望月千代女たち。劇中でもそれは再現されており、複数の歩き巫女と道中を歩いていたことが見て取れます。
今後の『どうする家康』は武田家との戦が待っているので、望月千代がどのように暗躍していくのか楽しみです。
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