「どうする家康」甲斐の虎、ついに始動!そして女城主の壮絶な最期…第11回放送「信玄との密約」振り返り
あまりにも凛々しく、悲しい最後は『どうする家康』を代表する名シーンになったのではないかと思います。
今回は、おんな城主として活躍した女性たちを一挙にご紹介します。
■井伊家を守った井伊直虎
井伊直虎は井伊谷城主・井伊直盛の娘として生まれます。直盛には男子がおらず、弘治元年(1555)に従妹の井伊直親を養子に迎えました。
しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでの直盛の戦死を機に、井伊家家臣・小野政次によって直親は謀殺、さらには井伊家を支えた家臣たちが相次いで亡くなる事態に見舞われました。
この事態を受けて、永禄8年(1565)に次郎法師の名で出家していた直虎は還俗。井伊家の女当主となり、井伊谷城の城主にもなりました。
そして、直虎は専横をしいていた政次の討伐を目標に掲げます。一度は政次に井伊谷城を奪われますが、反対勢力と徳川家康の協力もあり、元亀元年(1570)に処刑に追い込みました。

山県昌景/Wikipediaより
無事に井伊谷城を取り戻したのも束の間、元亀3年(1572)に武田家の侵攻により、井伊谷城は武田家家臣・山県昌景に明け渡します。
その後は浜松城にいる家康に従軍し、武田軍と戦いました。その間も養子の井伊直政のことを気にかけ、15歳になる天正3年(1575)の時に、家康の小姓として出仕させています。
そして、天正10年(1582)に直虎は病死しました。
■城の者を守るために武田に下ったおつやの方
おつやの方は織田信秀(織田信長の父)の妹で、信長とは叔母の関係に当たります。おつやの方は、岩村遠山家の遠山景任(とおやま-かげとお)に嫁いでいましたが、元亀3年(1572)に病死。跡継ぎに信長の五男・御坊丸(後の織田勝長)を派遣しました。
御坊丸はまだ幼かったこともあり、おつやの方が岩村遠山家の居城・岩村城の城主となりました。
しかし、同年に武田信玄が西上作戦を決行。岩村城は武田家家臣の秋山虎繁(あきやま-とらしげ)に包囲されました。おつやの方は信長に救援を送りますが、武田家の対応で忙しく、救援を送れない状態でした。

秋山虎繁/Wikipediaより
結果、おつやの方は岩村城の兵や民を守るため、虎繁の条件に従い結婚。岩村城は武田家の傘下に置かれました。この時、御坊丸は人質として甲斐に送られています。
そして天正3年(1575)、武田軍が長篠の戦いで織田・徳川連合軍の前に敗北すると、信長の嫡男・織田信忠が岩村城を包囲しました。
兵糧攻めにより、おつやの方と虎繫は窮地に陥ります。ついには、抗戦虚しく織田軍に降伏しました。
この戦いは岩村城の戦いといわれ、降伏したおつやの方と虎繫は逆さ磔の極刑に処されました。処刑の際におつやの方は、「叔母を殺すとは非道の行い。必ず因果応報を受けることになるぞ。」と叫びながら刑を受けたといわれています。
■父親顔負けの武勇を持つ立花誾千代

立花誾千代/Wikipediaより
立花誾千代(たちばな-ぎんちよ)は、永禄12年(1569)に生まれます。父親は37回の戦で一度も負けたことのない猛将・立花道雪です。
父親譲りの勇猛さを受け継ぎ、かつ跡継ぎの男子がいなかったので、天正3年(1575)に立花城の城主となりました。この時誾千代は7歳。それほど期待されていたことがうかがえます。
天正9年(1581)になると、誾千代は同い年の宗茂と結婚しました。宗茂は立花性を名乗ったので、立花城の城主は宗茂に譲られました。

立花宗茂/Wikipediaより
また、誾千代は女性ながら武勇に長けており、様々な逸話が残っています。それの代表として、関ヶ原の戦いで甲冑を着用し、出陣した話があります。
この話には続きがあり、誾千代は侍女にも武装させ、鉄砲隊を率いて加藤清正の進軍経路を変更させる功績を残しました。
他には文禄・慶長の役で宗茂が不在の間、誘ってきた豊臣秀吉に対して侍女に護衛として鉄砲を構えさせ、自らは武装して秀吉のもとに乗り込み、拒絶した話も残っています。
■生家の伊達家と戦った二階堂阿南
二階堂阿南(おなみ)は伊達政宗の祖父・伊達晴宗の長女です。須賀川城主・二階堂盛義に嫁ぎ、長男の盛隆と次男の行親を産みます。
盛隆は永禄8年(1565)に蘆名盛氏に敗れたため、蘆名家の人質となっていました。
しかし天正3年(1575)、盛氏の後継に当たる蘆名盛興が亡くなったことで、盛隆が蘆名家の当主に。以後、蘆名盛隆として生きることになりました。
一方、二階堂家では天正9年(1581)に盛義が翌年には行親が亡くなります。そのため、阿南が須賀川城の城主となりました。加えて、盛隆が暗殺される悲劇にも見舞われました。

伊達政宗/Wikipediaより
盛隆の死により衰退した蘆名家は、天正17年(1589)の摺上原の戦いで滅亡。甥の伊達政宗より降伏を薦められますが、阿南は徹底抗戦の構えを見せます。
そして、同年に伊達郡によって須賀川城は落城しました。その後は、甥の佐竹義宣の元へ身を寄せました。
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■古河公方家と小弓公方家を統一した足利氏姫
足利氏姫(うじひめ)は、天正2年(1574)に5代目古河公方・足利義氏の娘として生まれます。氏姫には弟の足利梅千代王丸がいましたが、既に亡くなっていました。
そのため、天正11年(1583)に義氏が亡くなると、9歳にして古河公方家の家督を相続しました。
そして、天正18年(1590)の小田原の役で後北条家が滅亡すると、氏姫は古河城から立ち退きを命じられます。その後、鴻巣御所に移動しました。

豊臣秀吉/Wikipediaより
翌年には豊臣秀吉の命により、小弓公方・足利頼純の長男である足利国朝と結婚。これによって対立関係にあった古河公方家と小弓公方家の統一が成されました。
この時に秀吉から喜連川(きつれがわ)の地を与えられますが、氏姫は鴻巣御所に住み続けました。
関ヶ原の戦い後には喜連川が喜連川藩となるも、氏姫は鴻巣御所に住み続けます。結局、氏姫は喜連川の地を踏むことなく、元和6年(1620)に46歳で亡くなりました。
■老齢にして後北条家と戦った妙印尼
妙印尼(みょういんに)は永正11年(1514)に誕生した女性です。上野国新田金山城城主・由良成繁に嫁いで、由良国繁と長尾顕長を生みました。天正12年(1584)に国繁と顕長が後北条家によって小田原城に幽閉されてしまいます。
妙印尼はこの時71歳でありながら城主不在の中、後北条家と戦いました。妙印尼の活躍によって翌年に国繁と顕長は解放。しかし、天正18年(1590)に小田原の役が始まると国繁と顕長は後北条家の命で小田原城に籠城させられます。
妙印尼は後北条家に与することなく、孫の由良貞繁と共に豊臣軍の松井田城攻略に従いました。この時の年齢は77歳。
若者に負けず劣らずの気力が功を奏し、松井田城攻略の功績として常陸国の牛久城を与えられました。
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■最後に
男だらけの戦国乱世で城主として生きた女性たち。彼女たちも家を守るため、民を守るためと様々な理由があったのは言うまでもありません。男顔負けの智謀と勇猛さで城主の役目を果たしたことは今後も語り継いでいくべきかと思います。
この記事を通しておんな城主たちに興味を持っていただけたら幸いです。
※参考文献:
・渡邊大門『戦国姫君イラスト事典』洋泉社、2010年
・小和田哲男『戦国武将の叡智-人事・教養・リーダーシップ』中公新書、2020年
トップ画像(左):大河ドラマ「どうする家康」公式ページより
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