みなさんは「戸田極子(とだ・きわこ)」という女性を知っていますか?

歴史に詳しい方であればご存じかもしれませんが、初めて聞いたという方も多いのではないでしょうか。彼女のお父さんは誰もが知る大物。
戸田極子は、優雅な物腰と美貌で「鹿鳴館の華」と言われた女性たちのうちのひとりです。

今回は、そんな彼女の人生に迫ってみたいと思います。

■父は幕末の超大物のあの人

戸田極子は岩倉具視(いわくらともみ)の娘として1858年(安政4年)に京都で生まれました。

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母は側室から後に正室(継室)となった槙子で、その美貌から岩倉具視に深く愛されたと言います。極子はそんな母親譲りの美貌の持ち主でした。

■14歳で結婚

なんと美しい!優雅な物腰とその美貌から”鹿鳴館の華”と呼ばれた岩倉具視の娘・戸田極子


戸田極子 肖像(出典:Tokyo Museum Collection)

極子は14歳で美濃国大垣藩知事・戸田氏共(うじたか)のもとに嫁ぎます。氏共は当時17歳。

夫は結婚直後にアメリカに留学してしまいますが、極子はそのあいだ実家に戻り、琴や茶道、英語やダンスなどに励みました。夫の帰国後、子どもを設けます。

極子は美貌だけでなくさまざまな才能を持ち、外国人を相手にしても物おじせず接することができる性格だったため、陸奥宗光の妻・陸奥亮子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれました。


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■ウィーンに移り住む

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戸田極子 肖像(出典:Tokyo Museum Collection)

才色兼備な極子は、伊藤博文が自身で主催した大がかりな仮面舞踏会で伊藤に関係を言い寄られ、スキャンダルになったとか(後の創作とも言われるこの話の真偽は不明です)。

1887年(明治20年)には、夫がオーストリア=ハンガリー全権公使に任命され、一家でウィーンに移り住みます。
このとき、作曲家のブラームスと交流し、ブラームスは極子の弾く箏曲を聞いたのではないかと言われています。

その後、1890年(明治23年)に日本に帰国します。

晩年は、早くに亡くなった娘の子どもを引き取り養育しています。そして、1936年(昭和11年)、夫の死から1か月経たないうちに亡くなりました。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

画像出典:Tokyo Museum Collection(画像1,画像2)

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