彼女の名前は、藤原璋子(ふじわらのしょうし・たまこ)。女院号の「待賢門院(たいけんもんいん)」の名前を聞いたことがあるかもしれません。
今回は、そんな藤原璋子の波乱の人生をご紹介していきたいと思います!
■幼いころから美しく自由奔放
待賢門院(女院号)像 Wikipediaより
藤原璋子は、平安時代の康和3年(1101年)、権大納言・藤原公実と藤原光子の娘として生まれました。7歳のときに父を亡くすと、白河法皇とその寵姫・祇園女御の養女として引き取られました。
とても美しい少女だったようで、永久3年(1115年)ごろには、摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が。しかし、璋子の素行に悪い噂があり、藤原忠通の父が縁談を断ってしまいます。藤原忠通の父はこのことにより、白河法皇の不興を買ったとされています。
■白河法皇と男女の仲になっている!?
藤原璋子はその後、白河法王の孫である鳥羽天皇に入内します。天皇とのあいだには5男2女の子宝に恵まれますが、彼女にはとある噂が。それが、入内前から白河法王と男女の仲だったというもの。
実は先ほどご紹介した、藤原忠通の父が縁談を断った本当の理由も、璋子と白河法王の関係が公然の秘密だったからではないかとされています。
■生まれたのは、白河法王とのあいだの子ども!?
上記のとおり、藤原璋子と鳥羽天皇のあいだには7人の子どもがいます。
その後、白河法王が亡くなり、鳥羽上皇が院政を行うようになると、彼は璋子よりも若い側妃の藤原得子を寵愛。次第に藤原璋子の居場所はなくなっていきました。
■西行出家の原因となる!?
宮中内だけでなく、歌人の西行(当時は「佐藤義清(さとうのりきよ)」という武士)までをも魅了したと言われる藤原璋子。二人は一度だけの関係を持ったとの逸話も残っています。
残念ながら天と地ほどもの格差がある二人。かなわぬ恋に苦しみ、自分の想いを断ち切るために出家し西行となったとも言われています。
その後、藤原璋子は久安元年(1145年)に亡くなっています。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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