日本の歴史において、色っぽい話が思い浮かぶのは吉原などの遊郭ではないでしょうか。ほかにも、さまざまな場所で「遊び」は行われていました。


今回の記事でご紹介するのは、「メリケンお浜」と呼ばれたとある娼婦。彼女の人生は波乱に満ちていました。

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■「チャブ屋」とは?

「メリケンお浜」の話をする際にまず前提として押さえておきたいのが「チャブ屋」というものです。「チャブ屋」とは、1860年代から1930年代において、日本に住む外国人や、船員を相手にした「あいまい宿」の俗称です。

あいまい宿とは、料理屋・茶屋・旅館などに見せかけて売春をする場所のことです。ただし、食事やダンスなどの目的で来る外国人もいたため、売春宿と言い切ることはできません。

もともとチャブ屋も、横浜の山手・根岸・本牧地区を結ぶ外国人遊歩道が建設されたのち、休憩用の茶屋が作られ、女性が和洋酒の一杯売りをしていました。横浜のチャブ屋が有名ですが、函館や神戸といったほかの港町にも存在したと言われています。



■漁師の娘から娼婦へ

「メリケンお浜」と呼ばれた女性(本名:関根イチ)は、1895年横浜市磯子区の漁師の家に生まれました。

横浜の本牧にあったチャブ屋街で働きだしますが、時期については10代、30歳ごろなど、諸説あります。

彼女は大きな人気を博し、彼女が働いていた「キヨホテル」の売れっ子に。
ちなみに、「キヨホテル」は代表的なチャブ屋の1つでした。

「船の乗組員のひとりが、お浜と別れるのを惜しみ、出発時間がずれた」などの伝説も残るほど。

■哀しい最期を迎える……事件は迷宮入りに

「キヨホテル」を辞めたあと、「メリケンお浜」は曙町で「メロン」というカフェをオープンさせたり、永真歓楽街で「バーお浜」を開いたりしました。

その後も屋台の運営などをして暮らしていましたが、1969年に事件が起きます。彼女はアパートで何者かに殺されてしまうのです。このとき彼女は、73歳でした。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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