みなさんは、「松永安左エ門(まつなが・やすざえもん)」という人物の名前を聞いたことがありますか?なんだか威厳のある名前ですが、彼は「日本の電気王」、「電力の鬼」などの異名を持つ実業家です。

そこで今回の記事では、後世にさまざまな面で大きな影響を与えた松永安左エ門の、不屈の人生に迫ってみたいと思います。


電力の鬼。日本の電力業に力を注いだ松永安左エ門(まつながやす...の画像はこちら >>


松永安左エ門(Wikipediaより)

■家族から可愛がられて育つ

松永安左エ門(幼名:亀之助。「安左エ門」は父の名前を襲名したものです)は、1875年(明治8年)、長崎県壱岐で生まれました。商家出身で、安左エ門は祖父母や両親、また親戚から可愛がられて育ったと言います。

■福沢諭吉の『学問のすすめ』に感銘を受ける

松永安左エ門は、福沢諭吉の『学問のすすめ』を読んで感銘を受け、14歳で慶應義塾へ入塾します。福沢諭吉から直接学ぶ機会もあったようで、この経験が松永安左エ門の人生の基盤を作ることになりました。

父の死により、中退し壱岐に戻り家業を継ぎます。しかし、3年で廃業。慶應に復学しますが、再度中退。その後日本銀行に就職します。

■サラリーマン生活になじめず、さまざまな事業を展開

松永安左エ門は、日本銀行も1年で辞めてしまいます。材木商、綿糸ブローカー、石炭商、コークス商などを試み、特に石炭商で成功すると、人脈ができるようになりました。

その人脈を活かし九州電気株式会社を設立。
電力業に力を注いでいきます。次々と他の電力会社を傘下にしていきました。



■値上げを断行!「電力の鬼」と呼ばれる

戦後、電気事業再編のリーダーとして選ばれたのが松永安左エ門でした。電力会社の経営を改善し、より多くの電力供給のため、松永が決めたのが料金の値上げ。約7割という異例の値上げに人々からは非難を受けました。

しかし、そこで信念を曲げないのが松永。結果、総電力量は3割拡大し、その後の高度成長を支えました。

■茶道を極める一面も

意外かもしれませんが、松永は「近代の三茶人」のひとりと称されています。晩年は、小田原の小さな家に隠居し、茶道を極めたといわれています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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