天下布武を掲げて戦国乱世を戦い抜いた織田信長(演:岡田准一)。類まれなる英傑として知られていますが、その資質は兄弟間でムラがあったようです。


今回の主人公は信長の弟・織田信照(おだ のぶてる)。『張州府志』によれば「織田越中者天性魯鈍人也(織田越中守=信照は生まれつき魯鈍[ろどん…おろかでにぶいこと]である)」などと酷評されています。

果たして彼は戦国乱世を生き残れたのか、ちょっと心配になってきました。さっそくその生涯をたどってみましょう。

■尾張一の美青年だったかも?

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「どうして兄弟でこうも似ないものか……」織田信秀は複雑な思いだったかも(イメージ)萬松寺蔵(画像:Wikipedia)

織田信照は天文15年(1546年)、織田信秀(演:藤岡弘、)の十男として生まれました。

母親は尾張熱田の商家から連れてきた娘(中根氏)、『尾張誌』によれば彼女は尾張国で一番の美人(尾張第一の美麗)だったそうです。

男児は何かと母親に似る(ただし例外も多数)と言いますから、さぞ美青年に成長しただろうと期待されます。

しかしあまりの魯鈍さゆえか、ほとんど引きこもって過ごしたそうです。

後に母の伝手で中根忠貞(なかね たださだ)に養子入り、中根信照とか織田中根と呼ばれました。

信長の在世中これといった活動はなく、目立つのは天正9年(1581年)に京都で行われた馬揃に参加したくらい。

兄の織田長益(ながます。有楽斎)、織田長利(ながとし。
又十郎)はもちろん、甥の織田信弌(のぶかず。本橋勘七郎)よりも格下として名を連ねています。



■「信長様の弟」ゆえに命拾い

そんなパッとしない信照は、天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が横死すると、甥の織田信雄(のぶかつ。信長次男)に仕えました。

天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦では信雄に従って奥城を守備しますが、羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)に攻められあっさり陥落。

天下人の兄とは大違い?織田信長の愚かでまぬけな弟・織田信照がたどった生涯【どうする家康】


捕らわれた信照の運命やいかに(イメージ)

斬られそうになったところを「かつてお仕えした信長様の弟君だから」と助命されました。

今まで「信長の弟」であることで引け目を感じていたかも知れませんが、この時ほど信長の遺徳に感謝したことはなかったでしょう。

その後も信雄に仕えて重用され、沓掛城主として二千貫文の高禄に与りました。

文禄3年(1594年)に織田家とゆかりの深い熱田神宮に長刀を奉納したのを最後に記録が途絶えた信照。晩年はのんびり暮らしたのかも知れませんね。

そして慶長15年(1610年)10月18日、65歳で生涯を終えたのでした。

■終わりに

以上、信長の弟・織田信照を紹介してきました。
最後に笑い話を一つ。

ある時、信照は「馬を五十頭持っておる」とホラを吹きました。誰も信じなかったので、信照は屋敷に戻って本当は一頭しかいない馬を、小者に命じて日がな一日洗わせたのでした。

天下人の兄とは大違い?織田信長の愚かでまぬけな弟・織田信照がたどった生涯【どうする家康】


一頭しかいない馬を大事にした?織田信照(イメージ)

これで「一日中洗わねばならぬほど多くの馬がいる」と見せかけたのですが、よく見れば毛並も色も同じですからすぐバレたようです。

そんな小細工をするくらいなら、少しでも勉学なり奉公に知恵を回しなさいよ、と思ってしまいますね。

でも、憎めないヤツだったのではないでしょうか。

NHK大河ドラマ「どうする家康」には間違いなく出てこないでしょうが、岡田准一の陰に現れた彼(エキストラ)が信照かも?と想像してみるのも一興ですね。

※参考文献:

  • 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』東京堂出版、2000年9月

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