そこで今回は、浅井氏独立のきっかけとなったお家騒動を紹介と、独立後の浅井氏のその後も解説します。
浅井長政/Wikipediaより
■浅井氏のルーツ

物部守屋/Wikipediaより
浅井氏のルーツは三条公綱落胤説と物部守屋(もののべ-の-もりや)後裔説の2通りがあります。
まず、三条公綱落胤説は近江守護・京極清持の預かりとなり、近江浅井郡丁野村に住んだ三条公綱の生んだ子が浅井氏の祖となる浅井重政だったという説。しかし、実際に住んだ土地は坂田郡加田村であり、『浅井三代記』の創作ではないかと指摘されています。
もう1つの物部守屋後裔説は、浅井氏が物部守屋の末裔で物部姓守屋流とする説ですが、守屋の父が敏達天皇(本来は物部尾輿)とされており、説を立証するのに明らかな問題があります。
ただ、滋賀県北部にある源昌寺に所蔵されている本尊薬師如来の背には建保3年(1215)の銘と浅井氏の名が記されていました。そのことから、鎌倉時代には北近江に勢力を持っていたことがわかります。
■浅井氏の下剋上を成功させたお家騒動

浅井亮政の子・久政/Wikipediaより
浅井氏は初代当主である浅井重政の頃より京極氏の譜代家臣でした。しかし、4代目に当たる浅井亮政(あざい-すけまさ)の時に、京極氏の家督を巡って家中が二分します。
当時、京極氏の当主は京極高清で後継者に次男の京極高吉を指名。逆に亮政は国衆の浅見貞則と共に、高清長男の京極高延を擁立しました。
大永3年(1523)に起きたこのお家騒動は、高延を擁立した亮政たちの勝利で収束しました。
亮政のやり方に反発した高延は父の高清と和解し亮政を攻めますが、敗れてしまいます。そして、天文3年(1534)高清たちは小谷城にて和解。これをきっかけに、北近江の支配権が京極氏から浅井氏へ移りました。
■長政の活躍で北近江での地位を確立させる

六角義賢/Wikipediaより
下剋上を成功させた浅井氏ですが、天文11年(1542)に亮政が亡くなると、次第に雲行きが怪しくなってきます。
勇猛な亮政に対して、家督を継いだ浅井久政は優れた面を持っていませんでした。そのため、南近江の六角氏の支援を受けた京極高吉や六角義賢が侵攻を開始。結果として、浅井氏は六角氏の家臣となってしまいました。
この弱腰の久政に家臣たちは反発し、久政の嫡男・浅井長政を擁立します。そして、久政を強制隠居させ、長政に家督を譲らせました。長政は六角氏からの独立を果たすべく、義賢と対立。
両雄は永禄3年(1560)、野良田の戦いで雌雄を決しました。この戦いで長政は勝利し、北近江での地位を確かなものにしました。
■その後の浅井氏
その後の浅井氏は織田信長の妹・お市の方を正室にし、同盟関係を結びました。そして、信長を裏切り、金ヶ崎の戦いへと繋がっていきます。
この裏切には久政の発言が影響したと言われており、完全に家督を引き継げていなかったことがわかります。長政の発言権が強かったら、歴史は変わっていたかもしません。
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